百合子

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 翌日、夜になってから百合子は出かけた。たった一ヶ月ほど行かなかっただけで、店の扉は自分を拒絶しているように見えた。  初来店のときと同じくらい緊張して、店内を覗くと、マスターの笑顔が出迎えてくれた。 「久しぶりですね」 「ええ……サトルくんは、来てるかしら」  今日はまだ見ていませんねぇ、と言いながらも、マスターはカクテルを手早く作り、百合子の前にグラスを置く。 「まだ注文していないわ」 「この店を忘れずに、ご来店くださったので。サービスですよ」  お茶目なことに彼はウィンクする。これからサトルと気の重い会話をしなければならないところで、少しほっとした。  ありがたく受け取ってゆっくりと口に含むと、アルコールの苦さの中にも、イチゴとカシスの甘酸っぱささがあって、美味しい。  二杯目をどんなものにしようかと悩んでいるときに、マスターが目配せして、百合子に目当ての人物の来訪を知らせた。  振り向くと、サトルは目を見開いてから、嬉しそうに細めた。 「久しぶり、だね」  少しぎこちないセリフは、後味の悪い別れ方のせいか、それとも。  百合子は微笑んで、「移動しましょ」と、彼をテーブル席に誘う。おとなしく着いてきた彼の分の酒も注文する。  酒を待っている間、サトルはちらちらと、百合子の顔を見ていた。傷跡のことについて聞きたいのだろう。百合子は傷に触れ、溜息交じりに話し始めた。 「ああ、これ? カッターで切られたのよ」 「ひどいね……犯人は捕まったの?」  通り魔かなにかに襲われたのだと思っているのだろう。百合子は目を閉じて、諦めたわ、という表情を浮かべて首を横に振った。 「それがね。もう捕まえることはできないの。犯人、死んじゃったから」  今度こそ彼の目は見開かれた。ドラマの役者みたいに、お手本のような驚愕の表情であった。  どうして、なんで。  矢継ぎ早な質問に、百合子は「落ち着いて」とサトルを宥めながら、事件の顛末を話した。 「ニュースで見たかしら。あの女、死んだの。元恋人に刺し殺されたんだって」 「ああ、うん。見た。……ってことは、百合子さんを切りつけたのは、その女ってこと?」  百合子が頷くと、彼は一度身体を強張らせて、それから弛緩させた。生きていてくれてよかった、と笑う。 「そのときにね、変なこと言ってたの」 「変なことって?」  首を捻っているサトルに、様子のおかしなところはない。百合子は「手紙」と短く言った。 「手紙を寄越したのは、お前だろう、って。そう言いながら、私に切りかかってきたのよ」 「手紙、か」  ふぅ、と細く長く、サトルは息を吐きだした。どんな、と尋ねてこないその反応が、すべて物語っている。 「ねぇ、サトルくん。あなたが……」  すべてを言い切る前に、サトルは「そうだよ、俺が出したんだ」と言った。朗らかな表情を、百合子は初めて、好ましいよりも怖いと思った。 「どうして? どうしてそこまでするの?」  メールや電話での嫌がらせについては、百合子も頼んだ。だが、手紙を彼女の元に直接届けることは、リスクが高いときっぱり断った。  サトルが百合子をじっと見つめてくる。熱っぽく潤んだ瞳は、まるで恋をしているようだと思った。 「あなたを傷つけるような人間、不幸になってしまえばいい」  大きな手が、百合子の丸い頬を包み、傷口に触れた。軽い痛みが走ったそばから、甘く滲む。心臓の音がうるさかった。 「百合子さんのことが、好きだから」  若くてきれいな顔をした男が、三十を過ぎた百合子に、真摯に愛を告白している。本当に、漫画の世界のようだった。 「でもそのせいで、百合子さんに怪我させちゃったね。ごめんね」  ぶんぶんと百合子は首を横に振った。声は出せなかった。頬に熱が集中する。傷口に触れる指はまだ、離れない。  この一瞬、百合子は文也のことを忘れていた。悲しみに暮れている彼を慰めて、手に入れようとしていたことも、どうでもよくなっていた。  だが、今の自分の気持ちをサトルに告げるのは、あまりにも軽薄だ。彼が百合子を好きになってくれた理由のひとつは、文也のことを、狂おしくも一途に愛していたからだ。  告白されて、調子に乗ってサトルにすぐに乗り換えたら、幻滅されてしまう。  返事ができずにいる百合子から、彼は手を離した。名残惜しさに声を上げそうになって、耐えた。  サトルは眉根を寄せて、苦しそうに微笑んだ。 「なんてね。百合子さんは、浅倉っていう人が好きなんだもんね。少しずつでいいから……もし、彼のことを忘れられそうならでいいから……俺のことも、考えてほしい」  その後、ただの友人であるように振る舞うサトルと酒を飲み続けたが、百合子は味がひとつもわからなかった。
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