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平和な街で起きた大事件も、犯人が現行犯で逮捕されていることもあって、すぐに風化していった。とはいえ、百合子はある意味当事者と言えなくもないので、詳しいことを調べていた。
男が夏織の住むマンションに当たりをつけられたのは、友人がSNSに載せた写真がヒントになったらしい、という話を聞いて、葬儀で一際大声で泣いていた女を思い出した。
『私のせいで!』
きっと彼女の写真が、住所を突き止めるきっかけになったのだ。その責任を感じて、ああいった醜態をさらすことになったのだろう。
夏織が死んだ一件には、サトルも百合子も関係ないことがわかって、ホッとした。
だから、何のためらいもなく文也に話しかけた。
「浅倉くん。ちゃんと食べてる?」
夏織が横からかっさらっていく前と同じように、姉御肌をアピールしながら、声をかける。
周りが百合子の行動に、眉を顰めて噂話をしているのは知っている。大嫌いな女が死んだのをいいことに、またみっともないアプローチを再開したのだと。
言わせておけばいい。百合子は文也のことを、心から心配して、食事に誘っているだけだ。
文也はまだ、心ここにあらずといった様子だ。仕事に集中しているときはいいが、休憩時間はぼんやりとしている。
現実に早く目を向けさせなければならない。
女は夏織だけじゃない。ここにも、とびきりのいい女がいるわよ。
百合子は文也の手を引いて、レストランに行った。食欲がないと言う彼に、「少しでも食べなきゃ!」と勝手にステーキを注文する。
文也の目には生気がなく、食事も機械的に摂っているだけだ。彼は注文した料理をほとんど残したが、百合子がすべて食べつくすので、問題はない。
四十九日が過ぎ、季節が秋になり、やがて雪のちらつく季節になっても、文也の調子は相変わらずであった。
「浅倉くん。今日は何食べたい? 私はお肉がいいなあ」
無反応な文也の腕を強引に引っ張って、百合子は外に連れ出す。タクシーに乗せ、繁華街へと繰り出した。
「今日は、お酒でも飲みましょ。ぱーっとやらないとね、ぱーっと」
百合子はあえて、騒がしい居酒屋を選んだ。これまでは、二人きりになれる店を選んでいたのだが、文也の気晴らしには、賑やかな方がいいかもしれない、と考えを改めたのだった。
デートではなく、ただ文也を慰めたいだけ。そう言い聞かせて、百合子はチェーン店の扉をくぐった。
百合子はよく食べ、そして飲んだ。文也はやはり、ほとんど食事に口をつけていなかったが、百合子が勧めるまま、酒はよく飲んだ。
文也がアルコールを摂取する姿を、百合子は久しぶりに見た。真っ白で生気のなかった顔に、赤みが差す。元気になったみたいだ。それが嬉しくて、百合子はどんどん飲ませた。
結果、文也は泥酔した。百合子は彼の肩を支えながら、タクシーを呼び止める。
一人暮らしを継続していてよかった。
別に、やましいことをしようというのではない。ここからなら百合子の家が近いし、ひとりでタクシーに乗せるのも心配だから、自宅で介抱しようと思っただけだ。
百合子は文也の身体をぎゅうぎゅうと車内に押し込むと、自宅の住所を告げた。
マンションの前までつけてもらって、降車する。エレベーターで上へ。ふうふう言いながら、文也を肩に乗せて支える。
どさりと彼の身体を、ベッドの上に横たえて、一息つく。
「う……ん」
文也が呻き声をあげた。掠れたその声は色っぽくて、百合子はドキリと胸がざわめいた。
サトルくんには悪いけれど、やっぱり私は、この人が好きなんだわ。
そっと彼の頬に手を触れ、衝動のままに、唇を寄せた。触れ合う一瞬前に、文也の口が動く。
「かおり、さん……?」
今は亡き、婚約者の名前を彼は呼んだ。百合子はぴたりと動きを止め、へなへなと座り込んだ。
文也はそのまま、深い眠りについた。
「死んでもまだ、あんたは私の邪魔をするのね」
ぼそりと百合子は言った。涙は出なかった。代わりに乾いた笑い声が漏れた。
死んだ人間には、勝てない。文也は夏織に一生、囚われたままで生きていくのだ。
やり場のない怒りと憎しみを、百合子は拳に込めて、床を一度、強く叩いた。
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