百合子

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 翌土曜日、目を覚ました文也は、自室ではない場所で眠っていたことに、驚いていた。そして、部屋を見渡して、ぼうっと座り込んでいる百合子を見て、びくりと肩を揺らした。 「わ、渡辺さん……?」  おっかなびっくり声をかけてくる文也に、百合子は一晩中眠れなかったために、充血した目を向け、にこりと笑った。 「安心して。何にもなかったわ」  文也は百合子の言葉を、信じていない様子だった。だが、百合子の衣服が昨日職場で見たものと同じで、乱れていないのを見て、ほっと息を吐いた。 「もう、いいの……浅倉くんは、古河さんのことを、一生忘れられないんでしょう?」 「……百合子さん……」  自分の負けを認めたところで、文也は百合子の名前を優しく呼んだ。  ずるいじゃない。  百合子の涙腺が緩む。  ようやく諦められると思ったのに、そんな風に呼ばれたら、未練が残ってしまう。  百合子はごしごしと目を擦り、文也に背を向けた。もう一度名前を呼ばれたら、抱きついてしまいそうだった。 「もう、行って」  百合子が甘える相手は、もう文也じゃない。  ばたん、と扉が閉まる音を聞いて、百合子は長い溜息をついた。同時に、両の目からは涙が零れていく。  目を閉じて思い浮かべる文也の顔は、いつもの優しい穏やかな表情だった。そして、オーバーラップするように、新しい恋の相手の顔が、重なって塗りつぶしていく。  そのまま彼のことを想いながら、百合子は眠りに落ちた。次に目が覚めたときには、すでに辺りは暗くなっていた。  飛び起きて、シャワーを浴びて、念入りに支度をする。そして例のバーへと、はやる胸を抑えながら向かった。  扉を開けると、彼だけが光り輝いて見えた。名前を呼ぼうとしたが、今までと違う気持ちが入り込んでしまって、百合子の舌は上手に動かない。  気づいて。  そう念を送ると、青年は扉の方を見た。百合子の存在に気がつくと、ぱっと嬉しそうに笑う。 「百合子さん!」  ああ、この声が聞きたかった。目を閉じて、反芻する。耳の奥に、記憶の中にこびりついた男の声を、かき消してほしい。  目を開き、百合子はしっかりと、彼の姿を捉えた。 「サトルくん」  近づいてきたサトルの手を、百合子は取った。強く引かれて、抱き締められる。 「会いたかった……会いたかった、百合子さん」  ヒロインになった気分だった。熱く抱擁され、愛を囁かれる。バーの客に注目され、百合子は「恥ずかしいわ」と言って、サトルの腕を抜け出す。 「あのね、サトルくん……私には、もうあなたしかいないの」 「わかってるよ、百合子さん」  二人はカウンター席に座った。今日はもう、後ろめたい相談事は何もない。マスターは、失恋してやけ酒をしている百合子の姿を見ていたから、上手くまとまったことに、感慨をもって頷いていた。  彼の差し出したカクテルは、二人の今後を祝福するような、きれいなピンク色だった。乾杯してあおれば、甘い味が口いっぱいに広がる。 「このままキスしたら、甘くて溶けちゃいそうだね」 「やだぁ」  まだ一杯目だというのに、百合子はサトルの口説き文句に酔った。祝い酒だとばかりに、サトルは何杯もカクテルを注文して、百合子にごちそうする。  店を出る頃には、すっかり出来上がっていた。前夜の文也と同じくらいの千鳥足で、百合子はサトルの肩を借り、どうにか通りに出る。  サトルがタクシーを拾い、百合子を乗せた。そのまま彼は立ち去ろうとしたのだが、百合子はサトルの袖口を離さなかった。 「まだ、一緒にいたいの」  アルコールで潤んだ瞳を向けると、サトルは苦笑しながら、隣の席に乗り込んだ。  百合子は自宅住所を告げて、うふふと幸福な気持ちで微笑みながら、サトルに甘えた。髪の毛を撫でてくれる彼の手は、とても優しい。  部屋に足を踏み入れた瞬間、百合子はサトルに抱きついた。 「サトルくん……愛してる、わぁ」  呂律が回っているか怪しい状態だったが、サトルには伝わっていた。力強く抱き返される。  キスしてほしい。抱いてほしい。背伸びをしても、背の低い百合子は自分から、サトルにキスをすることができない。  唇を尖らせて、キスしてほしいとねだるが、サトルは首を横に振った。 「どうしてよお!」  叫んだ百合子の唇に、サトルは人差し指をあてて「静かに」と黙らせる。 「百合子さんが、酔っぱらってるから」 「酔ってないもぉん」  サトルは百合子の腰に手を添えて、紳士的な振る舞いでベッドへとエスコートする。 「お酒の勢いで、俺は百合子さんとエッチしたくないんだ。初めては、大切にしたい。キスも」  ベッドの上に横たえられ、百合子の元には睡魔が襲ってくる。目を開けていられなくなる。 「今日は、あなたを抱き締めて眠るだけにするね」  おやすみ、と優しい声がかけられたときには、百合子はすでに、夢の世界に足を踏み入れていた。
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