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 ――恋なんて、自分勝手でいいの。恋より愛が上なんて、誰が決めたの。  耳元で鳴る洋楽は、歌詞を理解して聞いているわけではなかった。ラブとかセックスとか、そういう単語がわずかに聞き取れるから、それがラブソングなのだとわかった。  ハスキーな女性ボーカルは、なぜだか懐かしい女性の声を思い起こさせた。十年以上前のこと、理は当時、小学生だった。  彼女の言葉は半分くらい理解不能だったが、あの頃の自分にとっては、神のお告げにも等しかった。そして今もなお、心の支えとなっている。  大昔のことを考えていると、目当ての女が建物から出てきた。それとわからぬようについていく。コンビニでは、彼女が購入したものと同じ物を買った。 「袋はご入り用ですか?」  無言で頷く。  毎日何百人と客の来る店で、まったく同じ内訳のレシートは、何組あるだろう。  公園のベンチに座って食べ始めた彼女の、向かい側に座る。息を潜めて、じっと見る。女が視線に気がついた瞬間、理は素知らぬふりで視界から外した。  ――見られている。  彼女の目は、明らかに、男を捕食して生きていく女の、それだった。先ほどまでとは逆に、理を凝視し、値踏みしている。  思わず笑いそうになった。  普段の理を、彼女は歯牙にもかけないだろう。ぼさぼさの髪の毛で顔を隠し、眼鏡をかけ、ださい服装の大学生。背が高いのだけが取り柄だが、猫背で台無し。金も地位もセックスアピールもない、ただの背景。  そんな自分でも、髪を染めて眼鏡を外して小奇麗な格好をすれば、そこそこ遊んでいる若者に擬態できる。  理は女の動作をまねて、サンドウィッチを口に運んだ。少しだけ潰すと、パンに指の跡がつく。  女は理に興味津々だった。反吐が出そうになるのを隠して、彼女が髪の毛に触れるのを見ると、理も同じようにした。目が合って、微笑みかける。  すると女は、ぱっと恥じらうように視線を外したが、その後もちらちら、こちらを窺ってくる。  ミラーリング効果。合コンなど、ナンパ師やら、マッチングアプリで成果を出そうとする人間ならば知っている、心理学用語だ。勿論、目の前の女は理解している。  自分のことを意識している。彼女はそう思っている。確かにその通りではあるが、女が思っているような、好意ではなかった。  理の行動は、彼女の本質を確認するためのものだった。そしてそのテストの結果は、不合格。  もっとも、合格したからといって、理が彼女を認めるわけもなかったし、どんな女だって難癖をつけて落とすに決まっていた。  昼休みが終わろうとしている。タイミングよく、彼女が着信に気づいてスマートフォンに意識をやったところで、理は立ち上がり、公園から立ち去った。  ――兄の傍に、あんな女はいらない。  理は、帰りのバスに揺られながら、とある人物へと、メッセージを送った。 『小野田先生、やっぱり古河さんの件、よろしくお願いします』  間髪入れずに、「OK」というスタンプが送られてきて、理は鼻で笑った。  友人を陥れるための準備だというのに、能天気なものだ。これで大学では助手を務め、いずれは講師になろうというのだから、うちの学校も終わっている。  ――兄が古河夏織と付き合い始めたのは、三月の終わりだった。  文也からはっきりと、「恋人ができた」と聞かされたのは、実のところ初めての経験で、息が止まりかけた。  恥ずかしそうに報告する兄の珍しい姿は、心のカメラで連射したが、それはそれ、これはこれ。悪い虫がついたのが許せず、理はすぐに行動に移した。  「お義姉さんになる人か」と言って、興味のある素振りで、彼女の周辺事情をそれとなく文也に尋ねた。  市役所勤務の同期、ひとりっ子、〇〇大卒……あたりさわりのない情報が、何に役立つかわからない。 「じゃあ俺の先輩だね」  と言えば、恋人との共通項が見つかったのが嬉しかったのか、文也は照れ笑いした。  兄と別れ、ひとり自室にこもった理は夏織のことをSNSで検索した。最近はネットリテラシーの考え方も廃れているのか、個人情報をそうとは知らず垂れ流している女が多く、特定は余裕だった。顔写真は兄に見せてもらっていた。  過去投稿を遡ってチェックすると、特に問題のないものばかりだったが、なんとなく違和感がある。  黒くて長い髪、好感度の高いナチュラル風メイク、女性らしさを前面に出したワンピース、「可愛い!」と誰もが撮影する、カラフルでポップな飲み物――……その奥に、女は必ず、何かを隠しているものだ。  そこで理は、直接確かめに来た。夏織に気のある素振りを見せたら、すぐに釣れた。おそらくあそこで理が声をかけていれば、「ええ? 私、ですか?」などと言いながら、連絡先交換は簡単だっただろう。  あれは駄目だ。兄を不幸にする。  文也を守るべく、理はあらかじめ目をつけていた、二人の女に接触を図った。  一人は、文也や夏織と同じく、市役所に勤務している渡辺百合子。この女もまた、兄のことが好きでずっとアプローチしていた。  この女は、調べるまでもなくやばい女だった。あの優しい文也ですら愚痴を言っていた。  遠回しに迷惑だと伝えようが、めげずに食事に誘ってくる。美味しく楽しく食べられるならまだしも、マナーが悪くて、こちらはまったく食欲がわかないと、彼にしては珍しく、強い口調で非難していた。  そのあとでフォローするように、「梳いてくれるのは嬉しいんだけどね」と言った。まったく、文也は甘い。甘すぎて女がつけあがる。理は兄のそんなところが好きだが、女の方は許さない。  百合子もいずれ、排除する。だが、急務はすでに兄と関係のできあがっている、夏織の方である。  理は百合子のSNSのアカウントも押さえた。食べ物ばかり、食べかけの状態の写真まであって吐き気がしたが、連休中に行く予定の店のリストがご丁寧にアップされているのは好都合だった。  そして今、連絡を取った相手がもう一人である。夏織のSNSの相互フォローの中から見つけた人間だった。  小野田明美。理の通う大学の、文学部で助手を務めている。理工学部に在籍する理とは、まったく接点がない。  夏織がアップした写真の内、複数枚に写り込んでいるのは明美だけだった。他はその場限りの付き合いというか、友人関係が長続きしないタイプなのだろう。  理はまず、彼女が師事している教授が担当している講義にもぐりこんだ。  四月というタイミングもよかった。履修するか悩んでいるという顔で、自然に溶け込むことができる。  講義が終わってから、助手の明美はホワイトボードを消したり、余ったレジュメを回収したりと忙しい。  そこに声をかけて手伝い、交流をスタートさせた。  興味があって授業を履修した、と講義の感想をおべんちゃらに述べると、ぱっと彼女は明るい表情を浮かべた。  教授が講義に使っているテキストは、彼女の研究分野でもある。やる気のない学生が多い中で、門外漢の理が興味を持ってくれたことを、純粋に喜んでいる顔だった。  文学部のカフェテリアやテラス、喫茶店で、理は明美が専門としている『古今和歌集』についての話を何時間にもわたって聞き続けた。  学問第一に生きてきた明美にとって、自分の研究の話を聞いてくれる相手は貴重である。いつしか彼女の目には、教え子に向けるものとは思えない色が混じっていた。  女は嫌いだったが、惚れてくれるのはありがたい。ますます自分のお願い事を、なんでも彼女は聞いてくれるだろう。  時間をかけて明美の信頼を得た理は、連休前の最終講義の日、いよいよ相談を持ちかけた。  兄に婚約者ができたが、どんな相手なのかわからなくて不安だと眉を下げて相談すると、母性本能とやらが刺激されたのだろう、根掘り葉掘り聞かれた。  市役所勤務に勤務している同僚で……と、兄から聞いた相手の情報を小出しにしていって、夏織のことだとわかるようにした。 「それ、友達だわ」  そう言った明美に、「すごい偶然もあるもんですね」と驚きを露わにしつつ、理は自分の思い通りに会話が進んでいることに、満足した。  どんな人なんですか、という問いかけに、明美は苦い顔をした。親友だというのに、夏織のことを庇わない。  いや、親友だからこそ、古河夏織の本性を、嫌というほど知っているのだろう。  あからさまに罵ることはなかったが、その口ぶりには、微妙な心境が窺えた。  女の友情など、脆いものだ。  少し突けば、夏織は男っ気のない明美にマウントをとりがちで、男問題がある度にこちらの都合も聞かず、夜中まで通話に突き合わされ、学問が遅れる。そのストレスのせいで太ったり痩せたり大変だったのだと、彼女はこぼした。  理からすれば、教授の覚えのめでたさをかさに着ていたらしい明美も、五十歩百歩だが。 「お兄さんのこと心配よね……私が夏織と話をして、探ってみようか?」 と、自分から彼女は言い出した。こうして明美は理の協力者(スパイ)になった。  文也にはすでに、「母の具合がよくない。不安だから、ゴールデンウィークは家に戻ってきてほしい」とメッセージを送ってある。  連休中、デートはさせない。その隙に、明美には夏織と話をしてもらう。もしも夏織が、男を切らしたことがないことを頼みにする女のままであったなら。 『できるなら、彼女の不安を煽るようにしてほしい』  付け足した条件に、色恋に疎い明美は、「どうやって」とおろおろした。  輪かで語られる恋愛については饒舌なくせに、と理は内心で舌打ちをしたが、きちんと考えてやった。  過去の男のひとりやふたりくらい、知っているだろう? と。  案の定、夏織にはタチの悪い男がつきまとっているようで、「ああ。あの男。嫌いだったわ。夏織とは長かったけど」と、苦い顔をした。。  LINEでの「よろしく」は、作戦決行の号令だった。  明美の成果にも期待しているが、それ以上に、連休中は家に兄がいるのだと思うと、理の胸は高鳴った。  もともと家族三人で暮らしていた離れは、現在、研究で不規則な生活をしているからと、理が一人で住んでいる。文也は折り合いの悪い母のいる母屋ではなく、元々彼が使っていた離れの一室で、寝起きすることになるだろう。  大好きな兄と、一つ屋根の下で二人きりだ。無表情の顔の中で、唇だけがにやにやと緩む。渡辺百合子への接触をしなければならないという憂鬱さも、約一週間、兄と一緒にいられると思えば、少しは慰められる。  連休は、二人で何をしよう。  理の頭の中は、楽しい予定だけが浮かんでいた。
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