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 久々に帰省した文也に対して、母親はそっけなかった。 「何しに帰ってきたのよ」  睨みつけられ、冷たい声を浴びせられても、文也は動じない。彼女の向かい側に正座をして、きちんと話をする体勢を整えた。 「何しにって、理から聞いたよ。あんまり体調がよくないんだって?」  すると母親は、複雑な表情を浮かべた。文也に心配されるのは癪だが、そのきっかけが理の思いやりであることには、喜びを覚えたのだろう。二人のことを、少し離れたところから見守っていた理には、母の考えが、手に取るようにわかった。  理が物心ついたときには、すでに母は、兄のことを疎んじていた。理の誕生日には、わざわざ仕事を休み、ごちそうを作るのに、文也のときはプレゼントも、ケーキすらも用意しない。  文也が大人になってからの話ではない。まだ彼が、小中学生の時期から、母親は文也には何もしなかった。  ネグレクトまでいかないのは、必要最低限の衣食住、学校に関することについては、世間体を気にしてきちんと世話をしていたからだ。  その分、父は文也を可愛がった。そのせいで、ますます母は、文也に当たり散らし、理を溺愛した。  文也が実子ではないというのなら、疎ましく思う理由もわかる。しかし、兄と理は、残念ながら同じ両親の血を引いて生まれた正真正銘の兄弟だ。一縷の望みを抱いて、こっそりDNA鑑定をしたから間違いない。  一時期は実の兄に向ける感情を持て余して荒れたが、今はもう、吹っ切れて行動をしている。 「別に、あんたの世話になるほどじゃないよ」 「でも、母さん仕事辞めてから、ほとんど外に出なくなっただろ? 運動不足もあるんじゃないかな」  バン、と母がテーブルを叩いた。理は肩を跳ね上げたが、文也は慣れているのか、予測済みであったのか、冷静だった。 「母さん」 「うるさい!」  でっぷりと肥えた身体を、よっこらしょ、と持ち上げて、どすどすと足音を立て、母は別の部屋に行ってしまった。  文也は小さく溜息をついて、理に視線を向けた。やれやれ、という感情がありありと浮かんでいたので、理もまた、同じように苦笑した。 「相変わらずだなあ」  すべてを諦め、他人事を眺める口調だった。もう二十年近くも、文也は母から嫌われている。憎まれているといっても過言ではない。  兄は、父にとてもよく似ていた。顔も背格好も、声も、そして、表面上は性格も。  だからこそ、母は兄を毛嫌いした。  理は両親が仲良くしている姿を、一度も見たことがない。子供の作り方を知ってからは、あの不仲な両親が、どうして自分を産もうと思ったのか、と理解に苦しんだ。  文也は相当長い期間を、一人っ子として過ごしている。二人目が欲しくて頑張って、どうしてもできなくて、ようやく授かったのが理だというのならばわかるが、そうではないのだ。  成長するにつれて、父の浮気癖のせいで、母が苦しんでいたのを知った。離れていく父の心をどうにかして繋ぎ止めようと、母は理を産んだ。 ひとりよりもふたりの方が、夫に与える罪悪感は大きくなるという狙いであった。結局、子はかすがいというのは、まったくの幻に終わったが。  文也は両親の不仲を気にしていた。善良な彼は、母のサンドバッグにされても、大きく反発したりしなかった。  理は、そんな兄を、母の腕に抱え込まれたまま、見続けていた。健気に耐え続ける兄は、誰よりも尊く、素晴らしく見えた。 「理にも、苦労をかけるね」  文也は、自分よりも背が高い弟の頭を撫でた。小さい頃とまったく変わらずに、兄は理を可愛がる。その優しさが、理の想いを募らせる。  母は自分を溺愛してくるが、昔から好きではない。表面上はおもねっているが、兄に対する態度をずっと軽蔑している。 だがそれ以上に、理にとっては父親が邪魔だった。  母が邪険にすると父は兄を可愛がった。母さんがごめんなァ、と代わりに謝罪して、親をまっとうしているつもりになっていたが、元凶はそもそもこの男だ。土産を買って帰ってくる度、文也がどんな顔をしていたのか、まるで気づかないような男だった。  兄のことを愛しているのは、自分だけでいい。父も、他の誰も、文也を愛する人間は、いなくていい。  ――相手のことを想って、引くときは引くのが愛っていうんなら、あたしはイヤ。あたしの好きなようにして、何が悪いのよ。あんたも好きな子がいるなら、絶対引いちゃダメよ。  そう教えてくれた人もまた、文也に好意を寄せていた。  理は、彼女の言葉に従った。  あの日、兄を愛した人間はふたり、いなくなった。そのときのことが忘れられ宇、今も身を引いたりせず、裏で画策している。すべては文也を守るためという免罪符がある。  連休最終日の昼間に、兄は自分のマンションへと帰っていった。理はただ微笑んで、見送った。次は夏休みだね、というと、文也は頷いた。  次に兄が帰ってくるまでには、決着をつけておきたいものだ。  夜になってから、理は用意していたヘアスプレーで髪の色を変え、セットした。眼鏡を外してコンタクトにすれば、まるきり別人。そこにいるのは無口で根暗な理系大学生ではなく、その辺でよく遊んでいそうな、軽い青年だ。  母が見たら今までの反動で、ひどくヒステリーを起こしそうだが、その方がいっそ楽なのでは、と思う。そうすれば自分は自由になれる。兄との逢瀬に嫌な顔をされることもなくなる。  まあ、その兄に迷惑をかけたくないから、大学卒業までは猫をかぶって脛をかじり続ける。祖父母の遺産を母だけに食いつぶさせはしない。兄にいかない金なら、全部自分が使った方がマシだ。  理は母屋の様子をうかがいつつ、外に出た。スマートフォンで渡辺百合子のSNSをリアルタイムで監視しながら、彼女が今日行く予定だと書きこんでいた店に向かう。  店から一人で出てきた百合子を尾行して、バーに入ったところを見届けた。出てくる気配のないことを確認してから、理も入店した。  やけ酒をしているのを制止して、泣きながらくだをまく女を、心にもない言葉で慰めた。普段の学生生活は無口だが、こういうときの口は、よく回る。  握りしめた百合子の手はぶくぶくと脂肪だらけで、成人女性のものというより、赤ん坊みたいだった。彼女の頬に自分の指が沈んでいくのを目の当たりにして、理は驚愕した。  だが、そんな内心はおくびにも出さず、理はサトルと名乗り、女の話を黙って聞き、タイミングよく肯定してやった。ほんのわずかに下心を滲ませるのも忘れない。  理は百合子の行動を煽り、暴走させるようなことを言って、その日はすぐに立ち去った。週末にはまた、この店に来ることを約束して。  帰宅してから、理は念入りに手を洗い、ヘアスプレーで染色した髪の毛の色を落とす。風呂上がりに眼鏡をかけると、元の冴えない大学生に戻った。  すん、と鼻を鳴らして理は自分の身体にしみついた匂いを嗅ぎ、不快感に眉根を寄せた。香水の臭いと、肥満した女から移った脂と汗の臭い。一度のシャワーでは、落ちていないように錯覚する。  べたべた触られた、手の脂がまだ皮膚に残っている気がして、潔癖症ではないが、理は机に何度もなすりつけた。  おそらく、この調子で文也にも触っていたのだろう。温厚な文也が、彼女のことを苦々しく思うのもわかる。  兄に好意を寄せる女は、みんな彼に、そして自分に不愉快な思いをさせる。あんな女たちと付き合っても、文也のためにならない。  夏織も、文也も、そしてあの少女も。  鍵を忘れ、オートロックのマンションに入れずにいた。中学生ならば、近所のファストフード店やファミレスで時間をつぶすという選択肢もあったが、小学生の理には、そうした考えはなかったし、そもそも学校に金を持っていっていなかった。  ぶらぶらと手持無沙汰にしている理を見つけ、彼女は声をかけてきた。  ――ねぇ、お兄ちゃんの名前なんて言うの? 文也? じゃあフミくんね。ねぇ、これ、フミくんに渡しておいてよ。  恋は身勝手。その宣言どおりに彼女は兄をあだ名で呼んだ。そんな風に呼ぶ相手はおらず、理は勝手に、文也の「特別」を手に入れた女に殺意を覚えた。 子どもの心の内になど気づかず、彼女は理に、調理実習で作ったクッキーを預けた。  自分で渡せば、と冷たく言い放った理の額を、彼女はぴんと指で弾いた。あまりの痛みに涙目になっている子供に対して、彼女はえらそうに腕を組んで、諭すように言った。  ――あのねぇ。あんたの兄ちゃんみたいな真面目くんに、いつもみたいなアプローチしたら、引かれて終わりでしょ?  いつものアプローチを詳しくは知らないが、聞いてもろくな回答ではなさそうだ。理は黙っていた。  ――あたしは使えるもんは使う主義なの!  使えるもん扱いをされた理の額は、彼女と別れ、帰宅してもまだ痛かった。十年以上経った今でも覚えている。  あの頃はまだ、理の苗字は浅倉ではなかったし、東京でマンション暮らしをしていた。かの女子高生もまた、同じマンションに住んでいて、良識的な住人からは、鼻つまみ者にされていた。  短いスカートを履いて、マンションにはほぼ日替わりで、別の車が送り迎えをしに来る。彼女の母も長いこと水商売をしていて、娘のことをほとんど放置していた。  母親は口を酸っぱくして、「あんな娘に近づくんじゃないよ」と理のみならず、、文也にも言っていた。普段は放置していても、評判の悪い小娘に引っかかったとなれば、外聞が悪い。彼女は兄と同い年だった。あんなのにつきまとわれたら恥だ、と言い続けていた。  兄は、学校も違うし接点もないし、そもそも自分のような真面目だけが取り柄の高校生は、彼女の趣味ではないだろう、と笑っていた。  だが、現実、彼女は文也を見かけ、なぜか好きになった。いつもみたいな――肉体で篭絡する方法を取らず、手作りクッキーと手紙なんていう健全な手法で近づこうとした。  その気持ちが本気だったのか、それとも興味本位で近づいただけなのか。理にはわからない。  もう、答えを得ることはできない。  彼女はもはや、この世にはいないからだ。
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