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 翌日、テラスに現れた理を迎えた明美は、一瞬声をかけるのを躊躇っているようだった。理はこちらから、殊更に明るい声をかける。 「どうかしましたか、先生」  明美は先生と呼ばれるのを喜ぶ。いつもは「まだ先生って呼ぶには早いわ」とはにかみながら言うのに、今日はそれすら忘れ、「大丈夫?」と理を気遣った。 「大丈夫って、なにがですか」 「なんだか、顔色が悪いみたい」 「いえいえ……」  昨日、明美との電話の後に、文也からも連絡が来た。電話の向こうで、言いづらそうにもにゃもにゃと口を濁していたので、ついこちらから、「彼女さんと何かあったの?」と突っ込んでしまった。  理から口火を切ったことで、安心した文也の口は、滑らかだった。文也は夏織との間に子供ができたことを報告して、近いうちに挨拶をしに行くと言った。思わず、「うちに?」と問い返してしまった。 『当然だろ?』  いやいやいや、と理は思う。母親に会わせたところで、何がどう変わるというのか。相手がどんな女であろうが、あの母親は許さないだろうし、文也への評価は下がりこそすれ、上がることは決してない。  それでも兄は、実家で母と理に夏織を会わせると言い張る。母だけじゃない。自分も会いたくない。そんな気持ちは、おくびにも出さない。 『ふーん。じゃあ、本当に結婚するんだね。その前に、同棲かな』  探りを入れた理に、文也は肯定した。もう仕事も辞めてもらうから、と真剣な声音から推察するに、百合子との件も関連しているのだろう。余計なことをしてくれたね、と、自分も積極的に荷担したというのに、百合子にすべての罪を押しつける。  ……ああ、そうか。全部、百合子のせいにすればいいのか。  文也は夏織を今自分が住んでいるマンションの部屋に呼ぶことにした、と打ち明けた。  兄の部屋に乗り込んでいけば邪魔し放題だが、これからのことを考えると、目立つのは得策ではない。けれど、二人が挨拶に来るのをただ待つだけというのは、あまりにも無策である。  だから理は、明美を呼び出した。 「兄からも、電話が来ました」 「そう……」  理は明美に、一通の封筒を差し出した。何の変哲もない白い洋封筒だ。きちんと封をしてある。明美は手に取って、透かして中が見えないか確かめている。 「これは?」 「引っ越しの手伝いに行くでしょう?」  別に新居を用意するのではなく、すでに文也が住んでいるマンションに引っ越すということは、夏織は大きな家財道具を処分するはずだ。わざわざ引っ越し業者に頼むまでもない。  細々としたものをまとめるのに、女手が合った方がいいと考えるはず。そしてあの女には、友人がほとんどいない。 「ええ、その予定でいるけれど」 「そのときに、彼女に気づかれないように、これを郵便受けに入れてほしいんです」  宛先の書かれていない手紙の中身を、明美は知りたがった。 「別に、大したことじゃないですよ。彼女に心当たりがなければ、意味がわからない文章だから」  理は笑った。今回はまだ、核心をついた言葉は書いていない。ただ、「知っている」。それだけを、コピー用紙に印字した。  百合子にも同じように提案する予定だが、攪乱のため、先に明美に、この手紙を夏織に差し出してもらう。 「畑は一つでも、種は何種類もまけますからね……」  指を組んでくるくると回しながら、理は小さく呟いた。その意図するところがわからない明美ではない。 「まさか、あなた……」 「先生。俺は、疑ってるんですよ」  絶句している明美に、理は追い打ちをかける。 「そして、疑わせたのは小野田先生、あなたです」  明美からあれこれと聞きだした事実を統合した結果、理はひとつの結論に至った。 「先生も、疑ってるんでしょう?」  理は口元だけ微笑みを浮かべ、前髪と眼鏡の奥の目は、鋭く彼女を見つめる。  机の上、小刻みに震えている明美の手を、上から握った。百合子とは逆に、夏が近いというのにかさついていた。やはり嫌悪感が募ったが、手はあとでいくらでも洗えばいい。 「だから、確かめてきてください」  夏織のお腹の子供が、本当に文也の子供であることを、この手紙を見た彼女の反応で。  その言葉に、明美はぎくしゃくした動きで手紙を鞄に閉まい、そのまま席を立った。  理は肩だけで笑った。  明美もまた、夏織のことが嫌いなのだ。夏織の男遍歴を、彼女の婚約者の弟にあけすけにばらしたのは、婚約破棄になってしまえと思っていたからに違いない。  SNSのアカウントを見比べればわかる。同じ写真であっても、無加工でありのままの姿を載せる明美に対して、夏織は必ず、肌にフィルターをかけ、少しでも脚を細く見せようと加工する。しかも自分の写真だけに。そのせいで明美の顔が多少歪んだとしても、自分さえよく見えればそれでいいという意識が、丸わかりだった。  大学時代から、明美はずっと、夏織のそうした態度に耐えてきたのだろう。ギリギリまで満たされたコップの水に触れて、溢れさせたのは、唆す理の存在だ。  きっと明美は、うまくやる。自分が動くのは、確証を得てからでいい。今はまだ、情報収集を完璧にしなければ。  理は鞄から、タブレットPCを取り出した。匿名のアカウントに切り替え、それからある男のアカウントのホーム画面を、隅から隅まで眺めた。  そうだ。今度夏織が文也と一緒にやってきたときには、SNSに気をつけろと言ってやろう。  あの女はきっと、理のような人間を下に見るから、まともに取り合わない。もっとも、聞き入れたところで、理のやろうとしていることは見破れないだろうが。  ようやく愉快な気持ちになって、理は声を出して笑った。
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