夏織

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 職場から離れた店を指定した。同時に庁舎を出ては意味がないので、文也には悪いが時間を潰してもらって、夏織は先に出た。  バスに乗って、十分少々。待ち合わせの喫茶店に、先に入店する。  ここは学生時代、友人とよく通った店だ。今も、彼女と会うときはここだ。紅茶が美味しいのと、適度に離れた座席に高めの衝立が、内緒話をするのにうってつけだった。  昼はいいが、夜はやや肌寒い。温かい紅茶を注文してから、すぐに「着いたよ」とメッセージを送った。  既読マークは付くものの、返信はない。庁舎を出て、バス停に向かっているはずだ。早く来てほしい。  何をどう話すべきか。自分の過失に違いないが、どうにかうまく、誰かのせいにできないか。すなわち文也に責任を押しつけることになるが、さすがに彼も怒るだろう……。  そわそわと文也の到着を待ち、紅茶を飲むことも忘れていた。気づいたときには、ポットの中で渋くなってしまっていた。  砂糖でごまかしながら、夏織は冷めつつある紅茶に口をつける。  苦さに頭が冷静になる。やはり正直に謝罪するほかない、か。  チリン、とドアに設置されたベルが鳴ったので、はっとして夏織は入口を見た。  スーツ姿の文也が、きょろきょろと辺りを見回して、夏織のことを探していた。夏織は彼に見えるよう、手を高く挙げた。  こちらに気づいた文也は、店員に一声かけてから、向かい側に腰を下ろした。  コーヒーを注文して、彼は手を組み、夏織の話を聞く態勢を取った。 「緊急事態だって聞いたけど、何かあったの?」  トークアプリでのやり取りはもどかしいし、かといって電話だと、誰が聞いているかわからないから、彼にはまだ詳細を知らせていない。  運ばれてきたコーヒーを、まずは一口飲むことを勧めた。きっと話を聞けば、味なんて一つもわからなくなる。  夏織の言葉に従って、文也はブラックのままのコーヒーに口をつけた。夏織はじっと、彼の喉が動き飲み干す様子まで見守ってから、話し始めた。 「百合子さんに、ばれた」  溜息のような小さな声での報告に、文也は、「まさか」という表情を浮かべた。夏織の真剣な目から、真実であるということを知ると、顔を覆った。 「一応、人違いだとは言っておいたけれど、ごまかされてくれたかどうか……」  渡辺百合子が浅倉文也に執心していたのは、職場のほぼ全員が知っている事実であった。  きっかけなんて、文也ですら覚えていないという。就職して数か月経過した頃からずっと、文也は百合子に言い寄られていた。  こうなる前は、特別に彼を意識していたわけではない夏織ですら、オクターブ高い声で「浅倉くぅん」とドスドス接近していた姿を、何度も見たことがある。  気の毒だなあ、と見つめていたが、我がこととなると、非常に厄介である。 「百合子さん、何か言ってた?」 「ううん……でも、午後の業務は心あらずって感じだったし、明日、何を言われるかわからない」  夏織はターゲットから外していたからよく知らないことだったが、文也はこれで、よく女性から好意を寄せられていた。  見るからに草食男子なところが、特に年上の女性陣には美味しそうに見えたのかもしれない。上手く丸め込めば、結婚まで持っていけると思われていた節がある。  男慣れしていないおとなしい女性からも、男臭くないところが気に入られていた。女の社会では、大人になってもそういう話が耳に入ってくるものだ。  だが、百合子の熱烈なアプローチに、文也狙いの女たちは振り落とされていった。ボリュームのある身体を無理矢理捻じ込んで、彼女は文也を食事に誘った。  人前で堂々とデートの約束を取り付けるのは、押しに弱く、優しい気性の彼の善意を逆手に取ったやり方だ。文也は女性に恥をかかせてはいけないと思っている。  無論、夏織も目の前でそんなシーンを繰り広げられたことがある。文也の顔は見るからに引きつっているのに、百合子はまったく気にしないのだ。  人の顔色を窺うという、日本人に必須のスキルが彼女には備わっていない。また、自分の感情を隠すスキルも。  文也を前にした百合子の顔は、性欲丸出しで周囲をドン引きさせるほどだった。  一回くらい負けて、ホテルに行ったことがあるんじゃないかと疑ったけれど、文也は珍しく、烈火のごとく否定した。  しばらく文也は、掌で顔を覆って考え込んでいたが、やがて顔を上げた。 「夏織さん」 「は、はい」  その目がいつもとは違っていて、夏織の胸を震わせた。おどおどした優柔不断さは、かけらもない。  強い意志を宿した、勇気と男気に満ち溢れた目に見つめられて、夏織は頬が熱くなったのを感じ、思わず手で触れて確かめた。 「明日、百合子さんに僕が直接話す。その後に何かされたら、言ってほしい」  夏織の中の、頼りない男という評価が覆っていく。この男は、こんな表情もできるのか。 「私も一緒にいた方がいい?」  本当に頼っていいのか、上ずった声で尋ねた夏織に、文也は首を横に振った。 「これは、僕が百合子さんをちゃんと拒絶しなかったせいだから。僕が決着をつけるよ」  冷たく突き放すことのできなかったツケを、今こそ払わなければならない。  そう主張する彼は、頼もしい。夏織は肩の力を少しだけ抜くが、不安は拭えない。  あの百合子が、おとなしく振られてくれるだろうか。夏織は文也の手をぎゅっと握った。 「ごめんね。私があんな目立つところで、キスしちゃったから……」  キスシーンさえ見られていなければ、ごまかすことができた。百合子との直接対決を、引き伸ばせたのに。  夏織の謝罪に、文也は途端に真っ赤になって純情を露呈させた。先ほどまでは格好良かったのになぁ、と夏織はがっかりする。 「いや、でも、その……僕は、嬉しかったから、えっと、キス」 「文也くん……ふふっ」  はにかみ戸惑いながらも、文也ははっきりと言った。キスが嬉しいと思ってもらえる程度には、自分は好かれているのだ。  そう思うと夏織もまた、胸に温かいものが広がって、自然と口元を綻ばせていた。
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