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兄の「おやすみ」の声で眠り、「起きて。遅刻するよ……おはよう」と起こされる日々が、小学生の理の幸せだった。文也の優しい声をいつまでも聞いていたくて、わざとぐずぐずと起き出したものだった。
あの頃はまだ、自分が兄に抱く気持ちを、兄弟愛であると信じていた。言い聞かせていた、という方が正しいかもしれない。
血が繋がった相手に、それ以外の、またそれ以上の好意を抱くのは間違ったことだ。
世間一般に押しつけられた倫理観に、理は当時、囚われていた。
理のその考えを突き崩したのは、例の派手な女子高生だった。
彼女は評判通りのビッチで、話の半分も、奥手な性質の理は理解していなかった。
だが、恋愛はお手の物だと自負する彼女との対話を通じて、理は文也へと向ける悶々とした感情が、恋であることを認め、肯定し、そして増幅させていく結果になった。
彼女は複数の男と付き合っていた。肉体関係を持っていた。その中には、彼女の親友の恋人も含まれていた。
――そんなことして、いいの? みんな、お姉さんのせいで嫌な気持ちになってるんじゃない?
やめた方がいいんじゃないの、というお節介な気持ち半分、純粋な疑問半分で、理は下着が見えそうになっている少女から、視線を逸らして尋ねた。
彼女は豊満な胸を張って、声高らかに宣言をする。
――好きになったらねえ、奪いたくなるのよ。全部。あたし以外の女に、目を向けられないようにしてやりたい。そのためだったらあたし、なんだってするのよ。
フミくんへ、と兄に向けた手紙がついたクッキーを見ながら、彼女の言葉を繰り返し、胸の中で呟いた。
好きになった相手の視界には、自分さえいればいい。情熱的な恋は、愛とは違って、相手の幸せを願って身を引くなんて考えられない。
たとえ、相手が誰であろうとも、好きになってしまったら、止められない。
たまたま理にとって、心を揺さぶられる相手が血の繋がったの兄であった。ただそれだけなのだ。
――僕は、文也兄さんのことが、好きだ。
唇にそっと載せると、気持ちに名前がついて、現実味を帯びてくる。
好き、好き、好き……大好き。
決して受け入れられないだろう、恋心。密かにあたため、時にこっそりと兄の顔に触れる。それだけでじゅうぶん、満たされていた。
しかし、兄の周りは変わっていく。
頭がよくて穏やかな文也は、彼自身は無自覚であっても、いろいろな層の女によくモテた。おとなしい文学少女から、ビッチな女子高生まで。
将来有望そうだし、誠実だ。今のうちから捕まえておくべきだという、女の本能が働くのかもしれない。
――僕が選ばれなくてもいい。
けれど、女たちに文也を渡したくない。
少女は理に恋の自覚を促し、新たな世界を見せてくれたという点では、恩人だ。が、それとこれとは話が違う。
文也の隣を我が物顔で歩こうというのなら、彼女は敵だ。存在自体が悪だ。決して許さない。
理は幼い頭で必死に考えていた。いつしか空は、夕焼けに変わっていた。
その日、一番に帰ってきたのは、珍しく父であった。鍵を忘れたと言った理に対して、「バカだな」と笑った。
理は咄嗟に、持っていたクッキーの包みを渡した。
――なんだこれ?
――ここでさっきまで一緒に喋ってた、××さんちのお姉さんが、お父さんに、って。
父親の名前は、文浩……フミくんだ。
自分の息子と同い年の娘から、「くん」付けでなれなれしく呼ばれたことに、父は拒絶を示すかもしれない。怒鳴りこみにでも行かれたら、嘘がばれる。父にも彼女にも、怒られる。
そう思って理は、ドキドキと成り行きを見守った。
手紙に熱心に目を通していた父は、「ふぅん。そっか」と言ったが、彼女に興味を持ったことは明らかだ。
そのときの理はまだ知らなかったが、父は病的な浮気性で、母を度々泣かせていた。
――理、返事を届けてくれるか?
何度も女遊びを繰り返して痛い目を見ていれば、知恵も働くようになる。メールや電話は、母に抜き打ちでチェックされる。
さすがに高校生相手は条例違反。問答無用で離婚される。
母方は地方名士の家系で、資産家だ。父はその恩恵を手放したくない。
そのため、父は理を使った。一回につき五百円の小遣いで、父と女子高生との間の連絡係をすることになった。理にとっては、好都合だった。
翌日、同じ時間帯に外にいると、彼女がやってきて、「クッキーどうだったって?」とにやにやしながら聞いてきた。
――おいしかったって。
勿論文也は一口も食べていないが、主語は勝手に、彼女が解釈してくれる。少女は喜んだ。理が父から預かってきたメモを渡すと、更に飛び跳ねて嬉しがった。
理は伝書鳩だった。本物の伝書鳩と違うのは、二人の手紙のやり取りを覗き見することができ、ただ一人、真実を知っているところだ。
女子高生は、父の返事を文也からのものだと思って、返事をした。
――お兄さん、言い回しがちょっとおじさんっぽいところがあるのね。
そう言われたときには、ひやっとした。
フミくん、という彼女が勝手につけたあだ名が理にとっては功を奏し、彼女にとっては運の尽きであった。
いよいよ「会いたい」と父が手紙で切り出した。母にばれないように、待ち合わせ場所と時間を指定していた。
父からの手紙を見て、少女は頬を染めた。今思えばそれは、恋する乙女の可憐な表情ではなく、欲情した女の顔だったのだ。
あんな顔、兄の前でさせなくてよかった。心からそう思う。
彼女はさらさらと返事を書きつけて、キャンディーと一緒に理に渡した。「YES」の文字を見て、理は興奮した。
覗き見の後、きっちりと手紙を折り直す。少女からのものは複雑な形に折られていたので、不器用な理は、悪戦苦闘したが、どうにか元に戻すことができた。
父も彼女も、理が手紙を盗み見していることを、疑ってすらいなかった。
母は夜勤で病院。文也には、「友達の家で晩ごはんをごちそうになることになった」と嘘をつく。理は先回りして、二人の待ち合わせ場所に向かった。
腹は減ったが、少女からもらった飴を舐めてしのぐ。
先に来たのは女子高生の方で、鏡で念入りに髪型やメイクをチェックしていた。そこに父が、声をかけた。
人気のない場所だった。少女は父に肩を叩かれ、嬉しそうに微笑んで振り返った後に、悲鳴を上げた。
当然だ。男子高校生の文也を想定していたにも関わらず、親しげな様子で話しかけてきたのが、見知らぬ中年男性だったのだから。
痴漢に遭ったときのように叫ぶ彼女の口を、父は塞いだ。父からすれば、惚れたのは向こうからである。甘いやり取りを何度も交わした間柄で、拒絶される意味がわからない。
目の前で修羅場が繰り広げられているのを、理は妙な興奮をもって、見つめていた。
きっかけは、なんだっただろう。確か、少女が父に、ひどい言葉を浴びせかけたことだったような気がする。
普段は白い父の顔が、酒を飲んだときよりも赤くなり、ところどころ黒くなる。あっ、と思った瞬間、父は少女のか細い首を、締め上げていた。
――お前が。お前がお前がお前が誘ったんだろうが!
呻き声とともに吐き出される呪いの言葉を、理の語彙では把握しきれなかった。だから覚えていないが、少女に負けず劣らず、父も彼女を侮辱する言葉を使っていたという印象だけ残っている。
苦しそうな表情を浮かべていた少女だったが、ボキ、という硬い音がしてから、すっかり大人しくなった。
死んだ。死んでしまった。父が、殺した。
理は呆然と、殺人者と死体を観察した。
息ができなくなるよりも先に、首の骨が折れて人が死ぬこともあるのだと、初めて知った。
父も呆然としていたが、理が意を決して姿を現すと、青い顔をこちらに向け、口をパクパクさせた。
――殺したの?
高い子供の声で、理はできるだけ、無邪気に聞こえるように言った。父の身体は崩れ落ち、ああああああ、と言葉にならない声だけを発する。
――僕もお母さんもお兄ちゃんも、殺人犯の家族になるの?
――やだなぁ。殺人犯のお父さんなんて。
――ねぇ、どうするの?
しつこく何度も言い続けると、父は放心して、すっくと立ちあがった。少女の死体をずるずると引きずると、ここまで乗ってきた車に乗り込む。
理が見た、父の最後の姿であった。
その後警察の捜査で、車はあの有名な、富士の樹海の近辺に放置されていたのが発見されたという。二人とも結局、死体は見つからなかった。
同じマンションに住む男と女子高生が、同時期に失踪した。世間の目は、理たち家族に冷たかった。
母はそそくさと実家に逃げ帰り、弁護士を通して父不在のまま籍を抜いた。理たちは浅倉を名乗るようになり、転校した。三学期という、中途半端な時期に転校生になった。
文也に言い寄る女子高生といっしょに、文也を愛してやまない父親を消すことができたことは、理にとっては自信になった。
やはり、文也を愛し、彼のことを想い続けられるのは自分しかいない。愚かな連中に、兄を渡してなるものか。
その後も理は、文也に恋人ができそうになる度に、秘密裏に邪魔をし続けた。文也が東京の大学に進学してしまったため、理がとったのは、インターネットを駆使する方法であた。
母は理に甘く、早いうちから携帯電話やパソコンを買い与えていた。SNSの隆盛は、理にとって、歓迎すべき事態であった。
理が直接、その死を目の当たりにしたのは、きっかけとなった女子高生だけだ。父の死すら、実際にはどうかはわからない。だがその後、自分が炎上させた相手が自殺したと、風の噂では聞いていた。
そうやって文也のことを守り続けていたのに、やすやすと婚約者に収まった夏織が心底憎かった。
あの人も死んでくれないかな。お腹の子どももろとも。
そんな気持ちで、せっせと浮気相手の存在をほのめかす文面を送りつける。
ストレスで病気になって、子が流れればいい。心を病んで、線路に飛び込んでくれたらもっと嬉しい。
しかし、あの女はそんな繊細さは持ち合わせていないだろうなあ、と思った。
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