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翌朝、出勤してきた百合子を待ち構えて、文也は人目につかない場所へと呼び出した。
はらはらと見守っているのは夏織だけではなかった。昨日の食堂での一件は、思った以上に目立っていたようで、文也と百合子の向かった方向を眺めている人間が多かった。その後、夏織に複雑そうな視線を向けるのもセットである。
始業間近に戻ってきた百合子は、明らかに泣いていましたよ、という風情を醸し出していた。
だが、慰めに行く者はいない。君子危うきになんとやら。
夏織はわずかな罪悪感を抱きながら、周囲と同じように、百合子を遠巻きにしていた。
はあぁ、と大きな溜息をこれ見よがしに吐いた百合子は、首をギギギと動かして、赤く腫らした目を、夏織に向けた。
うっかり直視してしまった夏織は、慌てて背を向けた。見えないが、彼女がまだ自分を睨みつけているのを感じた。視線が突き刺さって痛い。初めての経験だった。
その日は、まともに仕事にならなかった。
住民票を入れた封筒を手渡すのに、何度か落としてしまったし、呼び出しの番号を間違えて、叱られたりもした。
気にしすぎだ。仕事中なのだから、百合子が自分をずっと睨んでいるなんて、ありえない。夏織は深呼吸して、気持ちを切り替える。
窓口の人間は、昼休みにもやってくる市民の対応のために、交代で休憩を取ることになっている。
これ以上、百合子を刺激するのは避けたい。夏織は彼女とも文也とも顔を合わせずに済むよう、外でランチにすることにした。
あと数日我慢すれば、ゴールデンウィークだ。そう思えば、このタイミングでばれたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
休暇中に、百合子も機嫌を直してくれたらいいな、と淡い期待をしながら、公園のベンチにハンカチを敷いて座る。
それにしても、今日は天気がいい。このままのんびり、ひなたぼっこでもして過ごしたいという誘惑に駆られる。
ぼんやりと積極的に現実逃避に励む夏織の向かい側のベンチに、青年が一人やってきて、座った。
夏織は、見るとはなしに彼を見ている。他に動くものもなく、見るべきものもなかったからだ。
彼は夏織が立ち寄ったコンビニエンスストアと同じビニール袋の中から、サンドウィッチとペットボトルのお茶を取り出す。
あ、と思った。それは、夏織が持っているのとまったく同じだったからだ。
別に両方とも、珍しい物ではない。だが、コンビニで扱っている食料品は何種類もある。おにぎりだって、若い男の胃を満足させる、大盛りの弁当だって。
――完全一致する確率って、どの程度なのかしら。
夏織は考えてみたが、学生時代から、数学は得意ではなかったので、すぐにやめた。
青年を観察する目に、好奇心が宿る。細く尖り気味の顎は、肉を噛み切るのには向いていなさそうだ。
それだけ見れば、リアル草食系男子とでも言えるが、夏織は彼の目の中にある、消しきれないギラギラした何かを、敏感に感じ取っていた。
文也からは、ついぞ向けられたことのない、熱いまなざし。
そちらに意識を引っ張られながら、無意識的にペットボトルに口をつける。そのとき、目の前の男もまた、お茶を飲んだ。
「あ」
小さな声が出た。彼に聞こえてしまったか。夏織はぱっと視線を逸らす。動揺した。
試しに髪の毛を触ってみると、ちらと見やった青年もまた、同じことをしていた。やっぱりそうだ。いよいよ確信した。
この男は、私の気を引こうとしている。
爽やかなイケメンだが、この男は見た目以上に女を誘惑する技術に長けている。
探るように見つめていた夏織に、青年はばっちりと目を合わせた。にっ、と唇を吊り上げて微笑みかけられて、夏織は慌てて立ち上がった。
魅力的な男だ。有体にいってしまえば、文也などよりもよほど、夏織の好みに合致した。
フリーであれば、きっと誘いに乗っていた。自分から声をかけて、連絡先を交換していたに違いない。まずワンナイト。相性がよければ、二度三度。
けれど今の自分は、残念ながら、恋人のいる身だった。ただの恋人ではない。プロポーズはまだだし、指輪ももらっていないが、婚約者という立場に近い、男がいる。
後ろめたい気持ちに拍車をかけたのは、震えたスマートフォンだった。文也からのメッセージの着信を通知している。
他の男に気を取られていたというばつの悪さを抱えながら、開く。真っ先に目に飛び込んできたのは、謝罪のスタンプだった。
『ごめん! GWなんだけど、母親が倒れて、実家に帰らなきゃならなくなった』
文章での文也の口調は、多少崩れるようになった。顔を合わせて喋るときには、いまだに時折敬語が混じるのだ。
連休中は、テレビで見た日帰り温泉施設に行こうとか、初めて彼のマンションを来訪したりだとか、そういう二人きりのイベントの計画を立てていた。
だが、母親が倒れたのであれば、仕方がない。
いいよ、と笑顔のスタンプとともにメッセージを送り、ふぅ、と息を吐いた。
視線を目の前のベンチに戻すと、すでに青年の姿は消えていた。
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