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ある坂道
夏休みの午後。17歳。
部活終わりの俺は高校からの下り坂を自転車でぶっ飛ばした。
その時の気持ちを俺はよく覚えている。
勢い。満ち溢れるエナジー。そして少しの寂しさ。
この夏は永遠に終わらない。
そう信じていた。
13年後。
今。30歳。
時刻は22時37分。
あたりは暗い。
電灯がポツポツ照らす。
あの坂道を登っている。
既に不在着信が5件入っていた。
茨城の地方都市。
俺が学生時代を過ごした街。
俺には帰るべき家がある。
住まいは千葉だ。
職場は品川。
別に常磐線を寝過ごしたわけじゃない。
ただ何もかも逃げたかった。
でも、どこにも行く宛がなくて、気づいたらここにいた。
坂には誰もいない。
いるのは30歳のくたびれたスーツの男。
俺だ。
30歳。
中小企業のサラリーマン。
年収380万。
5年付き合っている彼女と同棲中。
不在着信は彼女からだった。
LINEにはおそらくもっと不在着信が入っていることだろうが、今更、見る気も起きない。
特段、大きな不幸はない。
平凡な男だ。
職場はブラックではない。
ホワイトに少し藍色を混ぜたような感じの所だ。
給料は安い。
金はない。
でも、それを抜いたら、彼女と平和に暮らすただのアラサーだ。
だけども、俺はとにかく苦しかった。
閉塞感というのだろうか。圧迫感というのだろうか。
先が見えなかった。
いや、見えすぎていたのかも知れない。
同い年の彼女からは、結婚を急かされている。
優しい、普通の彼女。大切な人だけど、普通の人。
彼女は、結婚と出産を望んでいる。
この前は彼女と指輪を見に行った。
彼女は高い指輪に一瞬目を向けると、少し悩んで、下から2番目の金額の指輪を指さした。
これがいい、と言った彼女の笑顔は本物だった。
俺は、何にこんなに苦しんでいるんだろう。
分からないまま5年余りの時間が過ぎた。
いつも得体のしれないモヤモヤが心と頭を覆う。
いつも見ないふりをした。
その日は突然来た。
死にたいと思うのと似通った、消えたいという感情が目の前を覆った。
それが今日の帰りの電車だった。
満員電車から温度が消えた。
俺は重力を感じない体を支えた。
音が遠のいた。
そして、ここにきた。
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