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件の書店は、繁華街の外れ、雑居ビルの立ち並ぶブロックの一番端に慎ましく店を構えていた。煤けた看板には「尾張書店」と書かれているが、この県の旧国名は尾張ではない。どうせ適当につけた店名だろう。
身分証明書等、個人を特定できるものはすべて家に置いてきた。松島の財布の中は、一番短いコースの代金を払えば残金がほぼゼロになる現金だけだ。武器なども持っていない。もっとも、今日の松島は警察官として店を訪れたわけではない。あくまで一個人として、実態を確かめに来ただけだ。少なくともそういう事実があるということだけ確認できれば、なんの根拠もない……と一蹴されることもなくなるはずだ。
店に足を踏み入れると、天井まである背丈の書架が、入り組むように並んでいた。たいていの書店では規則的に整然と並んでいるはずの書架が、このように迷路みたいな置かれ方をされている時点で「いかにも」な雰囲気がある。店のドアを開けたときにカウベルが鳴ったにもかかわらず「いらっしゃい」の一言すら飛んでこなかったのも怪しい。まるで図書館のように、しん、と静まり返っている。
何度か袋小路に迷い込みながらも、ようやくカウンターへ辿り着いた。黒いエプロンをつけた店員はバケットハットを目深に被っており、表情までは窺い知ることができなかった。ここまで来たら、真相を確かめる以外の選択肢がない。たとえ何か起こったとしても、記憶の新しい今のうちなら、来た道を通って外に出られる。
「何かご用ですか」
松島が口を開くより先に、店員が低い声を掛けてくる。その一言のおかげで、松島の肚は決まった。
「女の心は移りにけりな、という本を探してる」
目元は見えなかったが、おそらく店員の目が見開かれた気配を感じた。すると店員は傍らのタブレットに何度か指を走らせたあと、徐にカウンター横のドアを開ける。
「こちらへどうぞ」
松島は促されるままカウンターの奥に進み、店員の後ろをついていくと、そのままバックヤードに招き入れられた。やがて「返品」と走り書きされた紙が貼られた書架の前に来ると、店員は軽い手つきでその書架を横にずらしてゆく。隠し扉ね、と胸中で独り言ちながら、地下へと続く階段を下りてゆく。
階段を最後まで下りきると、そこには奥まで一直線に続く廊下の両側に、等間隔でドアが並んでいる。防音扉のようなドアハンドルがついており、何も言われなければネットカフェやカラオケ店のようにも思える光景だった。松島たちが地下まで着いたタイミングでそのうちの一箇所のドアが開き、中から女性らしき人影が出てくるのが見えた。
「あとは彼女から聞いてください」
店員は踵を返し、再び黒い階段を上がってゆく。人の気配がしてもう一度廊下のほうへ向き直ると、さっき部屋から出てきた存在が、いつの間にか松島のすぐそばに来ていた。真っ青なワンピースに身を包み、人懐っこい笑みを浮かべている彼女の外見は二十代前半、下手をすればそれを割っているのではないかとも思える。
なにより、他のキャストがどうだかは分からないが、彼女は確かに美しかった。燃えていた使命感と正義感が、たちまち彼女の豊かな唇で吹き消されそうになって、松島は無意識に歯を食いしばった。流行り物の食い物飲み物はいずれ廃れる運命にあるという点で、安定しているとは言い難い。反面、こうしたリビドーに訴えかける商売は上下こそすれ、いつの時代も完全に廃れることはない。敵ながら天晴、というやつだ。
平常心が失われかけている――と松島の中で警鐘がなされた瞬間だった。
「ミサキっていいます」
松島のがさついた手を、ミサキと名乗った彼女がそっと握る。その体温は、ペットボトル越しに触れる常温飲料のような、ぬるい温度だった。
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