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促されて部屋の中に入ると、すぐ小上がりのようになっており、そこで靴を脱いだ。低いテーブルが部屋の真ん中に置かれ、奥に作り付けのベッドと、その隣には折戸がある。同じ構造の戸が松島の部屋にもあるし、それを押し開いた先は風呂場に通じている。おそらくこの部屋の場合は、シャワーブースがあるのだろう。
間違いなく、ここはクロだ。これは危険を冒して潜入してきた甲斐があったというものである。もっとも、今日の松島は警官ではない。
「お客さん、初めてですか?」
松島の靴を揃えていたミサキが、後ろから声をかけてきた。甘ったるい声色だが嫌悪感はない。いったいどれほど前から、どうしてこの店で働いているのだろうか。気にはなっても、変に怪しまれても困るから、根掘り葉掘り訊ねることは躊躇われた。
「ああ、初めて来た」
「そっか。まあ、緊張しなくてもいいですよ」
「緊張してるように見えるか」
実際のところ、松島は決してリラックスしているとは言えない状態だった。見たところ、この地下から抜け出す出口はさっき下りてきた階段一箇所しかなかったし、今も(何か起きた際にはどうやって脱出するか)と考えていた。自分は、単純な欲望に負けてこの店に来る馬鹿な連中とは違う。むしろそうであったなら、もう少し楽な気持ちになれたのかもしれなかった。
ミサキのほうへ振り返ると、彼女は松島の胸元へ飛びつくようにしてきた。頭ひとつ分くらい背の低いミサキの黒い髪からは、色とりどりの花束のような香りがした。ぴりぴりと理性が刺激されるのを感じ、松島は無意識に一瞬目を閉じたが、次にそれを開いたとき、よく整ったミサキの顔がすぐそばにあった。
「見えるね。下りてきたときから、頬に針金でも入ってるみたいに強張ってる」
くくっ、とミサキはどこか煽るように笑ってみせた。潜入するなら緊張感など悟られてはならないはずなのに、あの店員はともかく、彼女には最初からバレていたらしい。慣れないことをすべきではなかったか……と、覚悟が揺らぎ始める。
「――でも、今は全部、忘れていいよ」
果たして松島の身体と、覚悟を支えていた精神的支柱は、ミサキによってなぎ倒されることとなった。
*
一定の行為が終わると、ミサキはひょいと上体を起こした。ダウンライトに切り替えられた明かりが、彼女の白い背中を照らし出している。うっすらとかいた汗がラメのように輝いていた。
「飲み物あるけど、何にする? お茶に水、コーヒー、コーラ」
コトの最中と違い、初めに出会ったときと同じ声色だった。仕事を完璧にこなすプロ意識を感じざるを得ない。松島は、なんだかんだとやることはやってしまった自分の浅はかさを恥じた。自分への言い訳はいくらでも思いつくが、他人に向かって同じように取り繕えるかと言われれば、それは別の話だ。
松島が気を取り直して「コーヒーかな」と声を掛けると、ミサキは笑いえくぼを作りながら「はい」と応えた。
「あ、冷たいのしかないから」
「それ今言うのか」
松島がそう笑うと、ミサキもはっきり「あはは」と言いながら笑う。隙は見せない。あくまで「ミサキ」であり続ける彼女の本当の名前が、少し気になった。
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