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松島は、今もテーブルの上へ置かれているグラスに目をやった。どうやら、混ぜものが入っていたらしい。服と一緒に警戒心まで脱ぎ捨て、それは今の今までもう一度身につけていなかったことに気づき、愕然としてしまう。
「ま、今更それを学んでも、あなたがその知識を活かすことはもうないけどね」
「……なぜ」
「何が?」
「俺が、警官だと、わかって――」
「警官ってだいたい目つき悪いけど、あなた、すっごい色んなとこチラチラ見てたし。どうせ内部の様子を覚えておいて、後々に活かそうとでも思ってんだろうなーって。……ま、ぶっちゃけ自分から白状してくれるとは思わなかったけどね」
さっきミサキは「警察でしょ?」としか言っておらず、断定まではしていない。イレギュラーな状態にいるとはいえ、まんまと引っかかった結果がこの有様だ。俺はこれまで何を学んできたんだ……と松島は己を恥じこそすれ、まだ確かめきれていないことを、息も絶え絶えに彼女へ訊ねた。
「なんの、つもりで」
「冥土の土産に教えてあげよっか」
同級生に英文の訳し方を教えるみたいな調子で、ミサキはゆっくり話し始めた。
「この店はね、自らの快楽のために女を買う……なんて驕り高ぶる連中を集めて、根絶やしにするために作られた店なんだ」
ゴキブリホイホイみたいなもんかな、と平然も言ってのけるこの女は今も美しくて、松島は腹が立った。とてつもないブスだったらすぐに面罵できたのに、力が入らないばかりか頭も回らなくなってきて、余計にその気力を失くさせてゆく。
「ここで働いているキャストはみんな、何かしらの形で地獄を背負わされた経験のある子たちなんだ。虐待、ネグレクト、親族や恋人からのDV、エトセトラエトセトラ。マジでこの世の終わりみたいな場所から来た子ばっかり。ここはスタッフも客も含めて、この世界のカオスよ」
「だからって」
「そもそもがあんな胡散臭さマックスな書き込みや記事につられて集まってくるような連中、死んで当然だと思わん?」
ミサキの声は言っていることと裏腹に、昨日のドラマの感想に同意を求めるみたいに、なんとも軽かった。
「まともな感性を持っている人間なら、こんなとこ来ないでしょ。ちなみにあのネットの情報は、うちの仕込み。ゴシップ雑誌は金を積んだらいくらでも言った通りの記事を書いてくれるしね」
俺もサイバー犯罪対策室も、まんまと一枚食わされたってことか。松島は苦虫を噛み潰したような思いだった。
警官の端くれとして恥ずべき失態ではあるが、今ここに松島を断罪できる存在がいるとすれば、それは目の前にいる女、ただ一人だけだった。
「あなたはそういう連中とは違う目的だったようだけど、いずれにしてもあたしらのことを邪魔する存在なら、ここから生きて出すわけにはいかないんだ。悪いねえ」
検事兼判事しかいない裁判が、何らの陳述もできないまま終了した。どこか「対岸の火事」のように捉えていた、死という一文字が、いま松島のすぐ近くにある。せめてそれに対する恐怖だけは悟られまいと、松島は敢えて大声を張り上げた。
「ひとつ、訊かせろ。――お前たちは、何者なんだ」
「そうだねえ。まともに生きるルートを一方的に潰されて生まれた、死神……かな」
ここが桃源郷だと。
バカ言え。
こいつらに言わせれば、ここはただの処刑場だろう。
ミサキはドアの傍でへたりこんだままの松島の腕を掴むと、そのままぐいと引っ張って、ぬいぐるみ遊びに飽きたかの如く松島を床に引き倒した。しこたま頭を打っているはずだが、その感覚が朧げにしか伝わってこなくて、松島は何もかもを完全に間違えてしまったことを知った。
一体、どうしてこんなことに。周囲に黙って潜入などを試みたから? 深くまで足を踏み入れる前に一度退却しなかったから?
あまつさえ「これも捜査だ」と自分に言い聞かせながら、やることをやってしまったから。
なるほど。
ミサキたちが集めて殺したがっているのは、俺のような奴のことだった。自分のために周りを言い訳にして、他人を食い物にするような――。
「だから今度はあたしらが、相手から生を奪う側にまわる。あたしから全部奪っていったくせに、モアプリーズなんて馬鹿なことを求めてくる連中なんか、皆殺しにしてやる」
もう指ひとつ動かせない。松島は床に転がったまま、四角い天井をただ見上げることしかできなかった。
ミサキが松島の身体へ覆いかぶさるようにして、表情をうかがっているのを感じる。
しかし、そんなミサキの顔すら、松島の目には既にほとんど映っていなかった。
「でも、いいよね。あなたも最後にそこそこいい思いができたわけだし、血まみれどころかキレイな体で逝けるんだから」
声が遠くなっていく。
もう、この女の顔が思い出せない。
「お客さん、今日は来てくれてありがとう。――未来永劫、ごきげんよう」
別れの挨拶を口にすることができないまま、松島の意識は、そこで途切れた。
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