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夕食中に上着のポケットに入れておいた携帯電話が鳴って体が震えた。
父親が言う。
「最近よく鳴るな、綾乃の携帯」
「友達?」
母が訊くので頷いた。
「……うん。ちょっと変わった子なの」
席を立って廊下に出て戸を閉める。あれから三日毎晩鳴る。
「もしもし」
『今どこ?』
「家」
『今友達と飲んでるんだけど出てこない?』
「今から? 無理です」
『何してるの?』
「晩ご飯」
『フォアグラあるよ』
「食べ物でつられたりしないです」
『エッチしようよ。来なよ』
彼の背後で女性が複数笑うのが聞こえた。「誰?」と言うのが聞こえる。
「嫌です」
電話を切って三十分。自室のベッドの上で仰向けに寝転んでいると携帯電話が鳴り出した。あの男の番号が表示されている。
「もしもし」
『来ちゃった。インターホン押していい?』
「駄目!」
『じゃあ出てきてよ』
慌てて部屋を出た。階段を降りた所で母に会った。
「どこ行くの?」
「コンビニ」
ドアを開けるとすぐに門扉に凭れかかっている男の後ろ姿が見えた。男物のパーカを着てフードを頭に被っている。綾乃が声をかける前に振り向いて不敵に笑った。
「家に来ないで」
夜の住宅街であまり大きな声は出せない。それに母や父が出てきたら困る。ナツのパーカの袖を掴んで引っ張る。目立たない所まで誘導して言う。
「私はなっちゃんと違って遊びでああいうこと出来ないの。初めてだったのに」
「気持ちよさそうだったじゃん」
「そんな筈ない」
言いながら泣きそうになった。この三日毎晩呼び出されている。毎晩彼が住むアパートに連れて行かれる。初日は出前を取ったと言って寿司を食べさせられたあと戸惑っているとやはり押し倒されたので必死で抵抗すると何事もなく帰らせてもらえた。
昨日は手作りのシチューがふるまわれた。そのあとやはり体の距離が近付いてきて危険な雰囲気になったのだけど帰りたいと言うと送ってくれた。
そこまで悪い人ではないのかもしれない。だけどこうやって家に来られると動揺する。何を考えているのかわからない。あんなことをしておいて友達にはなれない。恋人でもない。多分彼は綾乃を都合のいいセフレにしたいんだろう。
目に涙が溜まってナツを見ていられなくなったので俯いたら彼の大きな手が綾乃の顎を掬うようにして顔が近付いた。キスをされた。脳味噌が沸騰する。子供みたいに情けない声が出た。
「私はまだ子供だから。こんなの無理」
普通の恋愛でさえ経験がない。人気のある男子を遠巻きに眺めることがあったぐらいで片思いと言えるのかどうかすら怪しいほどの感覚しか持ったことがない。それなのに性別不明の両刀の男につまみ食いされて玩具にされようとしている。彼は美人過ぎる。
だけど今日は少し雰囲気が違う。明らかに男物の服装で化粧もしてないので背が高いのもあってモデル風のイケメンに見える。服と化粧で彼は印象がとても変わる。
店で見かけていた頃は物凄く大人だと思っていたけど一昨日、昨日、今日とノーメイクの顔を間近で見て喋っていると思ったより子供な所がある。
顔立ちの美しさは間近で見ても惚れぼれするけど冷静な人だと思っていたのに意外と表情が豊かでにっこり笑ったり機嫌が悪そうだったり困った顔をしたりする。澄ました表情が冷たい印象なのでギャップがあってその分余計に子供っぽく見える。それでも綾乃からすると彼の言動は充分大人ではある。
ナツが住む部屋は単身者向けの庶民的なワンルームでそれも意外だった。普段ブランド物を身に付けているので高級マンションに住んでいると思い込んでいたけど違ったし部屋の中には男物と女物の服や日用品が散らかっていた。
綾乃の涙が止まって落ち着いてきたのを見計らってナツは綾乃の腕を掴んだ。
「今日友達の誕生日なんだよ。パーティーやってるから来なよ」
「こんな遅くに」
拒否しようと振り解こうとした手を掴まれて強引に引っ張られて角を曲がるとワゴン車が待機していたので血の気が引いた。乗るまいと踏ん張ったら抱き上げられて後部座席に乗せられた。
車の中には他に四人。男も女もピアス、金髪、派手な化粧。
「お、可愛い」
助手席の男が振り向いて言う。茶髪で長髪。夜なのにサングラスをかけている。鎖状のネックレスが見える。
ひとつ前の座席の女が顔を出して綾乃を見る。ショートカットにパーマをあてた活発な雰囲気。彼女が言う。
「この子?」
「そう」
綾乃の横に座るナツが答える。
「へー」
別の女が言う。ショートの女の隣で同じように綾乃を見ている彼女はセミロングの茶髪で可憐な造りの顔をしている。
その女が二列目から三列目に移動してきてナツにしがみついてキスをした。ナツの顔を両手で掴んで濃厚なキスをしている。驚いた。すぐにナツの手が彼女の唇を塞いで彼女は離れた。
手の甲で口元を拭いながらナツが訊く。
「今の何?」
「クスリ。最近気に入ってるやつ。あたしともやろうよ」
とても短いスカートを穿いている。太股が露出して下着が見えそうである。そんな格好でナツの体に下半身を密着させて腰を振ったり股を擦りつけたりしている。ナツの手が彼女の腰を掴む。見ていられない。
「十八だっけ?」
ショートカットの女が綾乃に質問している。
「学校行かないで雑貨屋の店員してるって聞いたけど、もう将来ずっとそれでやってくの? つまんなくない?」
答える余裕がない。喉に何かひっかかったようになって返事が出来ないし顔を上げて見つめ返すのも困難だった。
運転席の方から声が飛ぶ。
「おいおい、泣かしちゃってんじゃん」
「あたしじゃないよ」
隣が動いた。ナツが女を引き剥がして綾乃に寄り添ってくる。
「大丈夫だよ」
綾乃の肩を抱いてその手で綾乃の頭を撫でる。
「怖くないよ。横にいるから」
ナツの声は優しくて安心する。
彼の平らな胸に顔を埋めて頭を撫でられていると不思議と落ち着いてきて涙が止まった。苦しかった呼吸も正常に戻る。ナツはいい匂いがする。香水じゃない。
「いい子だね、綾乃ちゃん」
顔を上げてナツを見た。いつものように微笑んでくれないし目が合わない。ぼんやりしている。眠たそうである。さっき飲まされた変な薬のせいかもしれない。
「泣きやんじゃったよ。どうすんの、もうお前に惚れちゃってるんじゃないの?」
助手席の男が言うので頭に血が昇って大きな声を出した。
「違う! ……私、夢があって、今のバイト続けてお金貯めたら海外行って、自分で好きなもの仕入れてお店開きたくて、だから今は恋愛なんかする暇ないんだから。好きになんかなってない! そんなわけない!」
ナツに退かされてナツの奥に座って拗ねていた女がまたナツの体に絡みついてキスをしている。悲惨な日だと思った。
車が停まるとナツに抱えられて下ろされた。
「着いた」とナツが言うので「帰りたい」と言ったけどナツは綾乃の肩に腕を回して言う。
「海外って、どこ? 英語出来るの? 大変じゃん。手伝ってあげようか。俺英語は割と喋れるよ」
「大丈夫」
繁華街の雑居ビルの半地下。薄暗い通路を暫く歩いた先にあるドアをナツが開ける。
薄暗い照明。すぐ手前のカウンター周りは客にしろ店員にしろまともに見える。だけど奥のボックス席では半裸で絡み合っている男女が見えた。ステージでも行為に及んでいる男女が見える。時折照明が縦横無尽に光を走らせている。妙に高揚した半狂乱の大人達、追い立てるような背景音楽。控えめな音ではない。皮膚に響く。
「ナツ! こっち」
常連なのかカウンターの店員が親しそうに呼ぶ。派手な柄シャツを着た三十歳前後の男で無精髭を生やしている。精悍な顔をしている。喧嘩が強そう。
同じ車で来た男女が近くのボックス席に入っていく。元々そこにいた人達とこちらを見ながら話すのが聞こえた。今日のパーティーの仲間なのかわからない。
「あれ綾乃ちゃん」
「十八」
「いいじゃん」
ナツが戻ってきて言う。
「ジュース取ってきてあげる。何がいい?」
「いらない」
「トマトジュース。美味しいよ」
ナツがカウンターの方へ行ったので出入口を振り返ってみたけどドアの前には強面の男が立ちはだかっている。
多分九時を過ぎている。この店を出られたとしても繁華街は酔っぱらいが多い。中学生の時ファミレスで忘年会をした帰りに酔っ払いにしつこく絡まれてお尻を触られたことはトラウマの一つだった。一人で帰るには心細い。父を呼ぶのが一番いい。言い訳を考えながらカーディガンのポケットに手を入れた。携帯電話が無い。
確かにポケットに入れた筈だった。カーディガンの下はワンピースでそれにはポケットがない。ナツが家に来て慌てて部屋を出たので携帯だけ手に持ってあとは何も持ってきてないし部屋の中は温かかったので踝までの靴下しか履いてない。すぐ家に帰るつもりだったのでサンダルを履いてきてしまっている。外だと寒かったけど車の中もこの店内も妙に暑い。汗を掻いてしまうぐらい暑い。のぼせそうになる。
「綾乃ちゃん」
知らない男に名前を呼ばれて振り向こうとしたら誰かが背後から綾乃の両肩に手を置いて引き寄せるようにした。ピアス、ネックレス、だらしない服装。さっき車内にいた男もいる。三人。ぐるりと綾乃を取り囲むようにして体の大きな大人の男達がやたら近い距離で話しかけてくる。
「ナツとばっかじゃなくて俺らとも遊ぼうよ」
近過ぎる。腕を触ったり髪を触ったり不快なぐらいに馴れ馴れしい。これは普通じゃない。
「離して下さい」
声が上ずった。とにかく怖い。怖すぎて目眩がした。息苦しい。
「ここがどういうとこかわかってるよね?」
ナツを探してカウンターの方を見るとナツを呼んだ男の店員がナツの首に腕を回して親密な様子で顔を寄せて笑いながら話し込んでいるのが見えた。ナツのお腹にはロングの巻き髪の女が抱きついている。絶望を感じる。
綾乃を取り囲む三人の内の一人が綾乃のお腹に腕を回して綾乃を引き摺っていく。
「いやっ!」
びっくりして振り払おうとしたけど完全にロックされて逃げることが出来ない。腕や足を振り回してみても三人がからかいながら簡単に捕まえてしまう。動揺して呼吸困難になるぐらい泣いていた。吐き気もする。助けてと叫んでいるのにここの店は誰も助けに来ない。気が狂う。
ボックス席のソファーの上に押さえつけられて見上げると綾乃の体を跨いで上に乗ってくる男の向こう側で座席を取り囲む薄いカーテンが閉まるのが見えた。
綾乃の足を開いて太股を撫でる男。抵抗出来ないように綾乃の腕をがっしり固定する男。太股を撫でていた男が綾乃のワンピースを胸の上まで捲り上げて自分のズボンのベルトを外しながら言う。
「マジでレイプしてるみてえ」
「興奮する」
「いやマジでレイプだし」
泣いている綾乃を見下ろして笑っている。この人達には優しさとか思いやりとかないんだろうか。こんな世界は知らない。なんでこんなことになったんだろう。とにかく悲しくて目が見えなくなってきた。
「何してんの。ダメじゃん、この子俺のだよ」
聞き覚えのある声に反応して視力が少し回復した。綾乃の上に乗っている男の腕を掴んで後ろに引っ張っているのはナツである。
「はあ? お前」
眉を顰めて掴みかかりそうなその男は急にやる気をなくしてナツの肩をどんと叩いた。
「いいよ、わかった」
「いーよ」
三人とも呆気なく立ち去った。体が震えて動けないでいる綾乃の服をナツが直してくれる。それが済むと綾乃に手を差し伸べて言う。
「いい場所があるよ」
非常口を出た先の通路は静かだった。ドアの向こうの音楽が少し漏れて聞こえるだけで人の声は聞こえない。
照明が青い。格子が嵌め込まれた大きな窓は摺りガラスで外が見えない。窓の前のオリーブの植木鉢の横にしゃがんでナツが持ってきた赤い液体が入ったグラスを受取って少しずつ口に運んだ。緊張して喉が渇いていたのでとても美味しく感じた。
キスをしてその場所でセックスをした。立ったまま格子窓に指を引っ掛けて耐えるしかなかった。
三人の知らない男にされるよりましだけど気持ちを整理するのは難しい。悲しいのに体は気持ちいい。背中にのしかかってくるナツは重たいけど壁に凭れているので我慢出来なくはないし股間の刺激の方が大変でそれどころではない。
狂いそうな気がして気を紛らわせる為にほんの少し顔を傾けて後ろにいるナツの表情を確認した。ナツの体も熱い。彼の額に汗が滲んで雫が頬を流れた。ちょっと眠たいようなのぼせた顔をしてナツは綾乃の目を見て笑った。
腰が抜けそうになって思わず踏ん張った足に何か絡まったので床を見ると自分のブラジャーがサンダルに引っ掛かっている。ショーツは足首に絡まっている。ワンピースの裾はお臍の辺りまで持ち上げられていてナツは綾乃の後頭部に頬をついてワンピースの裾から手を入れて綾乃の胸を掴んでいる。
彼は助けてくれた。だから彼に行為を許すのはお礼、そういうことでいいんだろうか。判断能力がおかしくなってくる。
「トマトジュース、あれ、お酒?」
息も切れ切れに訊くと長い吐息のあとにナツは答えた。
「そう。ブラッディマリー」
首元で言う。
体が昇り詰めていく。腰を掴まれて自分ではどうにもできない。声が間延びしてついに意識を保てなくなった。もう目を開けていられなくてとにかく眠りたかった。膝の力が抜けて崩れ落ちたあと見上げると窓の格子に手を掛けてナツがぼんやりと綾乃を見下ろしているのがわかった。
床に頬を付いてぐったりと動けなかった。だけど眠りたいので床に仰向けに寝転んだ。目に涙が溜まっている。呼吸を整えるのに精いっぱいで他の全てに余裕がない。いつの間にかさっき綾乃に乱暴しようとした三人の内の一人がナツの後ろにいて肩を掴んでいるのが見えた。
そこから先は記憶がない。気が付いたらナツの部屋にいた。初めて朝帰りをして両親に怒られた。
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