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午前十一時。店にナツが来た。ブランドのロゴが入った大きな紙袋をカウンターに置く。
ナツの手には大きな特徴がある。親指の爪が右手も左手も剥がれている。職場では付け爪を貼り付けているらしい。
「何?」
「昨日のお詫び。俺の友達がごめんね」
開けてみると鞄が出てきた。革製のボストンバッグ。
「わざわざ買ったの? こんな高価なもの。こんなの貰えないです」
「いいから」
「こんなの貰わなくても私別に誰にも言わない。警察に行ったりしない」
怖い表情を作って睨んでみるけどナツは澄ました顔で綾乃を見ている。彼はいつも余裕がある。綺麗だけど若干冷たすぎる印象のある顔立ちをしている。だから笑ってないと不安になるけどそれを補うのに充分なぐらいよく笑う。余裕でにっこり微笑む彼は白いシャツにミリタリー風の黒いコートを着ている。
「口止めの為じゃないよ。似合うと思ったから。いつも大きい鞄持ってるから、好みなんじゃないかと思ったんだよ」
もう少しで事件の被害者になる所だった。彼は危険過ぎる。彼の周りの人間が怖過ぎる。類は友を呼ぶというし多分彼自身怖い人なんだろう。実際強姦されているんだし既に事件の被害者なのかもしれない。容量オーバーである。自分には受け止められない。もう何も考えたくない。これ以上彼に関わるべきじゃない。
「帰って下さい。もう来ないで。鞄もいらない」
「好みじゃなかった?」
「鞄は好きなやつだけど」
「よかった」
「だけど貰えない」
「なんで?」
「裏がありそう」
「裏って何?」
「受け取ったら何でも言うこと聞かなきゃいけないとか」
ナツは少し笑った。
スカートのポケットの中で携帯電話が震える。見ると母からである。
『帰りに豆腐買ってきて』
昨日失くしたと思っていた携帯電話は今朝ちゃんとカーディガンのポケットに入っていた。
ナツは大きな車を所有している。ワンルームマンションの駐車場の一角を占有するには不似合いな高級車は戦車みたいに厳つい。戦車みたいな深緑色をしている。誰かからの貢ぎ物であるらしい。
今朝、家まで送ってくれた時、信号待ちをしているとナツが言った。
「鳥ってなんであんなに早起きなんだろう。どこで寝てるのかな」
力の抜けた姿勢で子供みたいな疑問を口にするので少し可愛いと思ってしまった。
「友達の妹が今度誕生日なんだよ。何か買おうかな」
近くの棚を見ながらナツが言う。
「綾乃ちゃんならこれとこれ、どっちが好き?」
パンダと熊のぬいぐるみを手に取って綾乃に訊く。
「何歳の子?」
「十八」
綾乃と同い年である。手が早い彼はその子にも綾乃にしたのと同じようなことをしたんだろうかと不快な感情が押し寄せてつい顰め面で見ていたらナツの視線が動いて目が合ったので驚いて目を逸らした。彼は怖い。一緒にいると時々胸が変になる。心臓が絞られるようになる。取り繕って答える。
「十八ならぬいぐるみじゃ駄目だと思うよ」
「何がいい?」
「なっちゃんみたいな人から貰うならアクセサリーとか。指輪だと恋人みたいだからイヤリングとかブレスレット? でもアクセサリー付けない子だったら的外れかも」
「綾乃ちゃんならどれがいい?」
「私はこのブレスレットとか」
カウンターのすぐ横の棚から赤とピンクと黄緑色の天然石のブレスレットを手に取る。
「じゃあこれ買うよ」
「こんなの興味ない子は困ると思うけど」
ナツは人懐こい笑顔を浮かべて答える。
「大丈夫、そういうの好きな子だよ」
「ラッピングするね」
カウンターの下に潜ってリボンを探す。
「綾乃ちゃん、彼氏いるの?」
何度もセックスしておいて今更それを訊くなんてやはり人間性に問題がある。屈んだまま答えた。
「いないけど」
「じゃあさー、俺の彼女になってよ」
リボンを見つけて立ち上がるとカウンターに寄り掛かって立っているナツが目の前にいる。
「綾乃ちゃんのこと好きなんだよね」
信用出来ない。そんなことを言うのは綾乃が彼にとって都合がいいからである。弱いし、だから自分勝手にセックスが出来る。だけど言い寄ってくる女性なら沢山いそうなのになんでわざわざ綾乃なんだろう。一番騙しやすそうだと思われているんだろうか。利用されるなんて許せない。
「嫌」
「俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃないけど」
「じゃあなんで駄目なの?」
「……男の人か女の人かわからない見た目とか」
「俺、小学生の時に家族が皆死んで施設に入ったんだけど、結構しんどい境遇でさ、まあ色々あって体売って金作るしかなくなったんだよ。女装した方が客層広がったから。綾乃ちゃんが嫌ならもう女の格好するのやめるよ」
好きでそのような仕事をしているわけではないということだろうか。不幸があってそうなったということだろうか。動揺した。何故こんなにショックなのかわからない。いつの間にか彼に情が沸いているのかもしれない。
「……昨日、怖かった。……なっちゃんの友達嫌。なっちゃんが、女の人とか、男の人とかと抱き合ったりキスしたり、……そういうの凄く嫌」
「わかった。あいつらともう会わない」
綾乃を見て微笑むナツはとても綺麗である。長い髪はさらさらだし微笑むとちょっとだけ目尻が下がって眉尻も下がって凄く優しそうで見ているとうっとりする。
「綾乃ちゃん以外の奴に触ったり触られたりもしない」
「……ほんとに?」
急に心が軽くなるのを感じた。
「笑った顔、久しぶり」
恥ずかしくなった。浮かれているのが見え見えだった。好意を持っているのがばれてしまった。顔が熱くなってきた。喋れなくなってラッピングしたブレスレットを渡したら返された。
「貰って」
「これ、友達の妹さんのプレゼントじゃ」
「違う。綾乃ちゃんにあげる」
どうしよう。嬉しい。
「今日、晩御飯食べに行こうか。迎えに来るよ」
ナツに連れられて商店街にある古い洋食屋に入った。ターコイズブルーを基調とした店内。年季は入っているけど手入れが行き届いていて清潔感があって居心地がいい店である。メニュー表を見て言う。
「ハンバーグにする」
「懐かしいな。俺もそれにしよう」
「よく来るの?」
「十年ぶりぐらい」
ナツは携帯電話で何かメッセージのやり取りをしている。
「やっぱり友達は捨てられないよね、いいよ、別に」
悪友でも友達に変わりない。
「信用しなよ」
ナツは顔を上げて綾乃を見た。
「あいつらとは二度と会わないよ」
「いいよ、別に。ただの友達なら私気にしないよ」
メニュー表を見ながら呟く。
「ティラミスも頼もうかな」
ナツは綾乃を見て微笑む。
「じゃあ俺も」
「なっちゃん友達多いよね」
「本当の友達はいないかも」
「そうなの?」
「俺あんまり人を信用しないから」
「そうなの?」
「だって怖いよ。例えばさー、告白されて、可哀想だから優しく丁重に断ったんだよ。そうしたらすぐにお前を殺して俺も死ぬみたいなことをする奴って実際いるんだよ。なんとか今生きてるけど何回も殺されかけたよ」
「……大変だね」
「綾乃ちゃんがいてくれるなら他の全員縁切ったっていいんだよ」
困惑した。
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