ハンバーグ・ティラミス・クレープ

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 六時に店を閉める。ビルの外に出るともう暗い。冬が近い。  ヘルメットを被った作業服の男性が横を通り過ぎた。少し先で半年前から水道工事をしている。いつも夜になると工事が始まる。大きな音を立てて道路に穴を開けている。  店にナツが来すぎるので仕事にならない。そう言って今日は来させなかった。仕事が終わったら家においでよとマンションの鍵を渡されたけどどうするかわからない。  ナツが何を考えているのかわからない。ナツがどういう人間なのかわからない。彼は恋愛を仕事にしているし経験の乏しい綾乃を騙すことなんか簡単に出来るだろうから本当のことはわからない。騙されているのだとしても既に離れがたい。終わりがあるなら覚悟をしておかないといけない。彼の友達にナツのことを聞けば少しは楽になるかもしれない。あの店に行けばナツを知っている人に会えるかもしれない。駅に向かう。記憶を頼りに店を探す。  一時間かかってようやく見覚えのある雑居ビルに辿り着いた。薄暗くて幅の狭い階段を下りる。薄紫色の壁から冷気を感じる。通路には照明がないけど奥のドアの辺りだけぼんやりと光っている。ドアを開くと暗い店内に少なくない人の姿がある。まだ時間が早いからだろう。この前程乱れた様子はない。  カウンターに見覚えのある店員がいる。綾乃をじっと見ている。無精髭を生やしているけど顔立ちは整っている。この間は派手な柄シャツだったけど今日はワイシャツである。  彼は思い出したように呟いた。 「ああ、ナツが連れてきた、あの時の」  もう一人、店員がホールからカウンターに戻ってきた。典型的なウェイターの格好をした若い金髪の男が綾乃の横に立って綾乃をじろじろ見ながら言う。 「見たことあるな」 「ナツの彼女」 「ああ、あの子だ」  BGMの音量が大きすぎる。だけどこの前程不快ではない。落ち着いた曲調で騒がしくない。ロマンチックで寂しい感じの知らない洋楽である。 「一人? 何しに来たの?」  金髪の店員が言うので答えた。 「なっちゃんと仲がいい人に会いたくて」 「会ってどうするの?」 「なっちゃんのことを教えてほしくて」 「何聞きたいの?」  金髪の店員は笑っている。一重で吊り目。色白で線が細い。無精髭の店員がズボンのポケットから携帯電話を出す。 「あいつのことならチカに聞けばいいよ。小学校の時から友達らしいから一番詳しい。呼んでみるからちょっと待って」 「あ、じゃあその間洗い物手伝ってくれる?」  金髪が言う。無精髭が首を振る。 「そんなことしなくていいよ。そこの椅子座って。コーヒーよりジュースがいい?」  ホールからまた別の店員が来た。眼鏡をかけた小柄な男性である。 「(さとし)さん、ちょっといいですか? なんか暴れてる女の子いて」  聡と呼ばれた無精髭の店員がホールに出ていくと金髪の店員が綾乃の手首を掴んで引っ張る。 「厨房こっち」  カウンターの奥にあるドアを開けた先に壁も天井も床も灰色の廊下があって店員は綾乃の手首を掴んだまま一番奥のドアを開ける。確かに厨房である。壁も天井も床も白一色。シンクには汚れたグラスが積み重ねられている。割れてしまわないのか心配になる。 「今日人少なくてさ、大変なんだよ」  仕方ないので袖を捲る。スポンジに洗剤を出す。 「ありがとう。助かる」 「いえ」  泡立てたスポンジでグラスを擦る。金髪の店員はすぐ横に立って綾乃の手元を見ている。水で泡を流しながら訊く。 「なっちゃんと仲いいんですか?」 「俺? うん、仲いいよ。あいつが働いてる店とこの店のオーナーが同じなんだけど、あいつオーナーのお気に入りだからしょっちゅうここに連れてこられてただ飯食わせてもらってるよ。あんな面してるからスカしてんのかと思ったらそうでもないから聡さんも気に入ってるし。まあ聡さんバイだから多分あいつに気があるんだと思うけど」  店員は言いながら蛇口を捻って水を止める。 「もういいよ」  タオルを渡されて手を拭く。 「綾乃ちゃんだったっけ。名前合ってる?」  顔を覗き込んでくる。頷く。 「付き合うの、ナツが初めて?」  頷く。 「やばいじゃん、最初があれってレベル高すぎ」 「つり合ってないですよね」  店員は笑っている。犬歯が見える。 「そうじゃないよ。ナツは難易度高すぎだから俺みたいな普通の奴と遊んで慣れた方がいいんじゃねってこと」  いつの間にか体の距離が近い。壁際に追い込まれている。避けようとすると腕や足で阻まれて背中や胸が冷たくなるのを感じた。 「何ですか?」  店員は顔を近付けて綾乃の目を見ながら言う。 「ふうん。確かに可愛いかも」  胸を掴まれた。綾乃の首筋を舐めて吸う。  暴れたけど腕も足も押さえつけられる。腰を掴まれて抱き寄せられる。 「放して」  足がもつれる。逃げようとしたけど引き摺られて倒された。床に押さえつけられた。セーターを捲られた。ブラジャーも。胸を掴まれて乳首を舐められた。最悪である。 「何やってんだよ」  女性の声がして見上げると出入り口にショートカットの女性が立っている。緩い癖のある短い髪。眉毛が薄くて殆ど無いように見える。化粧っけはないけどはっきりした目鼻立ちをした美人である。  ライダースジャケットにデニム。耳と口に金色のピアスをつけている。背が高い。見たことがある。多分あの車に乗っていた。  目が合ったけど彼女はすぐに目を逸らした。綾乃の上に覆い被さる男の腕を掴んで引き剝がす。男は後ろに尻もちをついて苦笑いした。 「早いじゃん」 「たまたま近くにいたんだよ。で? 何やってんの?」 「ナツがめちゃハマってるらしいじゃん。よっぽど具合がいいのかなって思うじゃん」 「お前彼女いるだろ? っていうか普通に犯罪」 「クソ」  男はのっそり立ち上がると厨房から出ていく。綾乃は服を直して体を起こす。女性はしゃがんで綾乃の目を見た。 「大丈夫?」  頷いて訊く。 「チカさん?」 「そう。蛇目(じゃのめ)チカ」 「なっちゃんと小学校の時から友達の?」 「そう」 「なっちゃんって、今迄どれぐらいの人と付き合ってたんですか?」 「聞きたいことってそれ?」  頷く。 「あんな仕事してるからグレーな部分もあるけどあいつが好きで付き合ってたなんていうのは今までいなかったと思うよ。女に限って言えば仕事でも殆ど相手してない筈。最初の方は客選べるようなもんじゃなかったから女もいたけど、もうずっと女とはやってなかったよ。女は面倒なんだって。妊娠したがるのがいて。だから綾乃ちゃんは特別。それよりあいつ自分のこと『なっちゃん』って呼ばせてるの? やば。あいつの姉ちゃんがナツのことそうやって呼んでたんだよね。まあいいか」  ポーカーフェイスなのによく喋る。 「おいでよ、向こうでジュース貰おう」  カウンターに一番近いテーブル席に座ってミックスジュースを貰った。チカはカフェオレを飲んでいる。片手でグラスを持ったまま彼女はエントランスのカウンターの無精髭の店員を指さす。 「あの人。聡はいい奴だから大丈夫。だけど早瀬。さっきのクソね。あいつは陰険。覚えときなよ。まあ、もう会うことないと思うけど」  彼女はガニ股で脚を開いて座っている。頬杖をついて綾乃を見ながら言う。 「可愛いヘアピン。ナツに貰ったの?」 「はい」  左耳の上辺りに留めたそれには薄いピンク色の芍薬の造花が付いている。 「そういえば、綾乃ちゃんって去年彼氏いたでしょ。すぐ別れたの?」 「去年?」 「そう」 「彼氏?」 「見たよ。クリスマスの夜、ショッピングモールにいたよね。ナツも一緒にいたんだよ。覚えてない? 目が合ってた気がするなあ、ナツと綾乃ちゃん。ナツはまだ髪が短くて黒くて、ピアスいっぱいつけてたかも。あれ? あの時ってまだ二人出会ってなかったっけ? あいつ結構長いこと綾乃ちゃんの店通ってたよね?」  ナツが綾乃の店に来るようになったのはそんなに前じゃない。知り合ってからまだ半年ぐらいしか経ってない。店に来るより前から彼らは綾乃のことを知っていたんだろうか。 「あれは彼氏じゃなくて、友達に誘われて行ったら男の人もいたってだけです」 「そうなんだ。あいつ勘違いしちゃってたな」  去年のクリスマス。ぼんやりと覚えている。確かに派手なグループを見た気がする。女性が一人いた気がする。  確かに一人目立つ男の人がいた。前髪が長めだったけど覗いて見えるすらっとした切れ長の目が大人っぽっくて鼻も口も輪郭も綺麗でスタイルもよくて目立っていた。だけどはっきりとその顔を思い出せない。今と雰囲気が違っていた。ナツだったんだろうか。確かに体形や顔の造作の印象は似ている。だけど今みたいなユニセックスな感じではなかった。不良っぽい男の人だった。かっこよかったけど怖い顔をしていた気がする。 「ナツ呼んどいたよ。ここは綾乃ちゃんみたいないい所のお嬢さんが来る所じゃないからね」 「私、お嬢さんなんかじゃないです。普通の、中流の家庭です」 「中流? 綾乃ちゃんのお父さん、上級国民って奴でしょ?」 「上級国民?」 「何したって捕まらない奴」 「チカ」  ナツの声がして驚いた。いつの間にか横に立っている。怒っている様子はないけど穏やかというわけでもない。感情を読み取るのが難しい表情をしてチカを見たあと綾乃の方に視線を向けた。少し怒っているかもしれない。目がいつもと違う気がする。  ナツの目は近くで見ると奥二重なのがわかる。くっきりした優しそうな目。砂糖を沢山溶かした甘いコーヒーみたいな色をした目。色が白くて肌が綺麗で唇は厚め。  茶色い髪は綾乃が前に少し切ったけどまだ長い。スーツみたいな黒いジャケット。ゆったりした黒いズボンにはベルトのような装飾が付いている。シルバーのネックレスとブレスレット。革靴を履いている。店に出ていたんだろう。女性的だった前とはがらっと雰囲気が変わっている。ナツが言う。 「なんでここに来たの?」  少し怖くて立ち上がる。いつでも逃げられるように準備をしておく。 「なっちゃんの友達に話を聞きたくて」 「何の話?」 「なっちゃんのこと」 「俺に聞けばいいよ」 「本当のこと話してくれる?」 「何でも話すよ」  ナツは綾乃の首の左側を親指で触りながら言う。 「どうしたの、これ」  チカが答えた。 「ああ、キスマーク。早瀬にヤラレそうだったんだよ」  ナツはチカを見たあと綾乃を見た。耐えられなくてナツの手を振り解く。 「ちょっとトイレ」  チカの声が背後から聞こえる。 「非常口の横」  ホールの照明が緑色に変わる。  トイレに逃げ込んだけどナツが追いかけてくる。綾乃を強く抱き締める。綾乃にキスをする。隙間がないぐらい体が密着する。キスが軽くない。性的なキスである。明らかに欲情している。全身が熱い。溶けそうである。脚の間にナツの下半身が入り込んでくる。もしかしたらここでセックスしてしまう。  その時ナツの背後からナツのジャケットを掴んで引っ張るチカが見えた。チカはナツの体を綾乃から引き剥がすとトイレの外に追い出した。 「ここ女子トイレ」  ドアを閉めると綾乃の方を向いて言う。 「ナツのことで相談したいことがあったらここじゃなくて人形町の『スタッヅ』ってレコード屋に来なよ。私そこで働いてるから」  頷く。 「じゃあね、私帰る」  チカが出ていく。  暫くしてトイレから出るとナツが廊下で待っていた。 「帰ろう」と言うので彼についていく。綾乃の手を掴んでナツが言う。 「どうやってここまで来たの?」 「歩いて」 「遠かっただろ」 「なっちゃんは?」 「車」  五分も歩かないうちに路地裏の狭い駐車場に辿り着いた。ナツの車が停まっている。  ドアを開けて運転席に乗り込みながらナツが言う。 「ソフトクリームが食べたい」  助手席に座ってドアを閉める。 「晩御飯食べられなくなるよ」 「晩御飯何食べる?」 「今日は家に帰る」 「怒るよ」 「なんで?」 「俺んち来なよ」 「何もしない?」 「しないよ」 「じゃあ晩御飯作ろうかな。ハッシュドビーフ。最近家で作って美味しかったの」  ナツは綾乃を見て微笑む。笑うと幼くなる。可愛い。 「買い物して帰ろうか」  言いながらハンドルを握るナツの左手に見慣れない指輪が嵌っていて驚いた。 「指輪」 「客に貰った」  ナツは薬指に嵌っているそれを抜いて綾乃に差し出す。 「あげる」 「高そうだよ」 「もうあの店辞めるよ。もっとましな所で働く」 「大丈夫?」 「頑張るからなんか欲しいな」 「何かって」  鞄の中を探そうとしたら右手を掴まれた。 「この指輪、欲しい」 「安いよ」  赤いガラスの石が付いた安い指輪を中指に付けている。外して渡すとナツはそれを自分の小指に嵌めてその指輪にキスをした。  夕食後流されてセックスをした。  それは確かに気持ちいい。気持ちよすぎて体を滅茶苦茶にされている感覚になる。  綾乃の舌を舐める。綾乃の胸をぎゅっと揉む。性器を奥まで押し込んで不規則に動かす。綾乃の体が柔らかくて気持ちいいなどと言う。  刺激に耐えられない。ただのセックスが何もかも狂わせる。目の前がチカチカする。ナツが少し動くだけで頭の中で火花が散って体中に電流が走る。耐えられない。  思考が麻痺する。セックスの道具になっている。ただの玩具になっている気がする。急に不安になって必死に意識を取り戻す。  目が合わないだけで不安になる。腰を掴まれて揺すられながら「なっちゃん」と呼んだ。息が上がる。 「今度、家族に会ってくれる?」  シーツを掴む。 「紹介するって言っちゃったの」 「いいよ」  ナツの視線は綾乃の下半身を捉えたままである。汗を掻いているし上気して少し赤くなっているけど冷静な顔をしている。  喘ぎながら訊いた。 「……ほんとに?」  体を引っ張られた。ナツが綾乃の胸の上で綾乃の目を見ながら言う。 「喋ってると舌噛むよ」  チェックのパッチワークのエプロンが椅子に掛けてある。あれもナツが買ってくれた。白い花の刺繍のテーブルクロス、銀色の食器。ナツの部屋に綾乃の好みのものが増えていく。  翌日ナツは綾乃の店に来てロケットペンダントを買った。
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