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人形町のレコード屋に行った。昼の二時過ぎ。小さな古い店である。店内に他に客はいない。
英語の曲が流れている。伴奏はギターだけでしゃがれた声の女性歌手がゆったりと穏やかに歌っている。レコード屋にしてはボリュームが絞られていて静かに感じる。
店の奥にレジがある。蛇目チカはそこでパソコンに向かってキーボードを叩いている。薄紫色の長袖のTシャツを着ているのが見える。昨日と同じで唇に金色のピアスがついている。彼女は横目で綾乃を確認すると表情を変えずに言う。
「よっぽど不安なんだね。何悩んでんの?」
すぐ近くまで移動して訊く。
「なっちゃんは悪い人ですか?」
チカは笑い出す。キーボードから手を放して椅子を回転させて綾乃を見上げる。
「全然。いい奴だよ。人傷つけることしないよ。あの店でもレイプされそうな女の子逃がしてやったりするし」
「私は最初レイプされたんです」
「ああ。綾乃ちゃんは例外。あいつが傷つけたいのはあんただけだよ。でも結局ちゃんと愛しちゃってるんだから悪い奴じゃないでしょ?」
「……私を傷つけたいって、なんでですか?」
「それは私の口からは言えない」
「なっちゃんを信じて大丈夫ですか?」
「そんなの知らないよ」
「私、妊娠するかもしれないです」
「心配しなくても女の子捨てるような奴じゃないよ。結婚しちゃえば? ナツは大学行ってないけど高校の時まではかなり勉強出来たから要領いいし何でも出来るよ。食べるのに困ることはないと思う。ああ、子供欲しくないタイプ? それともまだ自由が欲しいって感じ? それならちゃんと言っとかないとわかんないよ。まあ、プロポーズしてみなよ」
チカはパソコンに目を戻してまたキーボードを鳴らし始める。
「綾乃ちゃんのお父さんが許さないか」
「お父さん?」
「まあいいか」
チカは溜息を吐いたあと再び椅子を回して体を向けると綾乃を見た。
「綾乃ちゃんのお父さん、昔女子高生をひき逃げして死なせたの。すぐに病院に運ばれてたら助かったのにさ。何故か罪に問われなくて。その被害者ってのがナツの姉ちゃんなんだけど。そのあとすぐにお父さんも心臓悪くして死んじゃって。お母さんはもっとずっと前に病気で死んじゃってていなかったから養護施設に入ることになっちゃったんだけどそこも酷くて職員からの虐待が横行してたみたい。あ、バス事故のことは聞いてる? ドン引きするような傷がいっぱいでしょ? 神様に見放されてるんだよ。それぐらい悲惨な目に遭い続けてるの。あいつ復讐を糧に生きてきたんだと思うよ。施設に入って暫くした頃かな、綾乃ちゃんのお父さんを殺しに行ったことがあるよ。お父さん警察官なんでしょ? 勤務先に行ったんだって。簡単に取り押さえられて何も出来なかったって言ってたよ」
「……ごめんなさい」
驚いた。ちょっと頭が回らない。
「帰ります」
座り込みそうになるのを踏ん張って後退する。
ナツに黙って店を休んでチカに会いに来た。暫く歩いたところで口止めを忘れたことに気付いたけどどうでもよくなった。
店の様子を見に行くと綾乃の代わりに尾上香代がいて年配の女性客と話をしているのが見えた。彼女は普段オフィスで仕事をしている。
中学の先輩である。同じ家政部で仲良くしていた時に彼女の父親が開業したこの店を紹介してくれた。長い髪を緩く三つ編みにして眼鏡をかけている。店内には他に女子高生のグループが二組。客がお辞儀をして離れていくと香代は綾乃に気付いて微笑んだ。
「あれ、用事あったんじゃなかったの?」
「早く済んで暇になっちゃって」
「真面目過ぎ。有給なんだから遊びに行っていいんだよ」
「行きたい所が思いつかないです」
「最近何か作ってないの?」
「あ、じゃあ何か編もうかな」
「うん。今日はゆっくり好きなことすればいいよ」
毛糸を買って映画でも見てお菓子を食べて編み物をしてゆっくりしよう。コンビニでお菓子を買って公園のベンチに座って過去のひき逃げ事件を検索する。
父の名前が出てきた。ずっと昔である。綾乃はまだ幼かった。だから知らずにいたのかもしれない。チカから聞いた話は真実のようである。打ちのめされて長い間ぼんやりしてしまった。いつの間にか辺りが真っ暗になっていて立ち上がる。
帰宅すると門の前に背が高い男性が立っている。門扉に背中を向けて誰かの帰宅を待っている。黒いパーカにデニム。
暗くていまいち顔が見えないけど鼻が高くて横顔の輪郭が綺麗である。見覚えがある。なんとなくナツに似ているけど髪が短くて雰囲気が違う。
男が気付いてこちらに近付いてきた。ナツだった。一重だけど柔らかい雰囲気のとろんとした目。独特の色気のある顔。髪はさっぱりしたけどそこまで短いわけじゃない。だけどズボンのポケットに手を入れて歩くのも少し不良っぽくて違和感がある。目の前に立つと無言で綾乃を見下ろすので気まずくてこちらから話しかけた。
「髪切ったんだね。なんか全然別の人みたい。誰かと思った」
ナツはいつもと同じ人懐こい笑顔を浮かべる。
「綾乃ちゃんの家族に会うならちゃんとした方がいいかなと思って」
ナツは表札に視線を移動させて無表情になる。
「チカから聞いたよ」
「なんのことだろ」
誤魔化して言うとナツは綾乃を見て優しく微笑む。知らない男の人みたいで緊張する。綾乃の腰に腕を回して抱き寄せる。
「なっちゃん」
キスをされた。会ってすぐにするキスにしては情熱的過ぎる。動揺してナツの腕を強く捻った。ナツはキスを止めたけど綾乃の腰から手を離さない。
「俺のこと嫌いになってない?」
優しい顔で訊くのがなんだか怖い。去年のクリスマスに見た人だと思った。あの時彼の髪は黒かった。今は赤茶色。生え際も同じ色である。地毛だろうか。どう見ても男に見える今のナツはハンサムだけど冷たい感じがする。いつものフワフワした穏やかな空気がない。怒っているんだろうか。
カーポートに父の車がある。家の中に父がいる。そう思った時玄関のドアが開いた。中から父が出てきて動揺した。玄関照明が点いている。
父は立ち止まると目を細めた。
「綾乃? どうしたんだ」
父は普通である。警察官だからといって怖い顔をしているわけじゃない。目尻が下がった人の好さそうな顔をしている。職業柄かその年齢にしては引き締まった体形をしているけど顔立ちは穏やかである。髪は短くて年齢の割に白髪が多いかもしれない。
事故の話は聞いたことがなかった。綾乃にとってはいい父親だった。少し融通が利かない所があるけど優しくて家族思いで明るくて。正義感が強くて真面目で悪いことなんかしないと思っていた。人を死なせたことがあるなんて思わなかった。重傷を負わせた人を置いて逃げるなんてことを父がするとは信じられない。その罪から逃れることを受け入れたなんて信じられない。そんなことをしておいて何事もなかったみたいに今まで一緒に過ごしてきたのが信じられない。
「母さんから恋人が出来たって聞いたけど、そいつか?」
目を凝らすようにしながらナツの方を見て荒々しい口調で言う。
「付き合って日も浅いのに朝帰りさせるような奴は駄目だ。お前のことを大事にしてない」
父はナツの顔を見て何かに気付いたように眉を歪めた。驚いて困惑している。照明の下で顔色が悪くなっていくのがわかる。
「お前」
ナツの手は綾乃の腰にある。体が密着しているのが気になったようで父は強い口調でナツに言う。
「離れなさい。娘から離れろ」
ナツは綾乃の腰から手を離してその手をズボンのポケットに入れた。
「綾乃、こっちに来い」
どうしたらいいかわからない。頭が真っ白である。動けない。それを見て父がナツの方に声をかける。
「どういうつもりだ。なんで綾乃に近付いた?」
ナツは父を見て微笑んだ。
「復讐に使えると思ったから」
綾乃は泣いてしまった。ナツの冷たい声が聞こえる。
「また電話する」
ナツがいなくなると父が近付いてきた。
「あいつに何かされたのか? その、どういう付き合いを」
父を突き飛ばして階段を駆け上がる。部屋に入ると鍵をかけた。頭が回らない。
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