本に呼ばれて

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 運命の一冊に出会おうとしたのが間違いだった。 『あなたの運命の一冊、見つかります』  会社帰り、そんな看板を見つけた。  僕は足を止める。いつもくたびれて直帰しているからだろう。職場の最寄り駅にこんなものがあるなんて知らなかった。  安っぽいフレーズの看板だと思った。だが、僕はそれに惹かれ矢印が記す路地に足を進める。そこには『本結び堂』と書かれた小さな古びた本屋があった。  窓は擦りガラスになっており、中はよく見えない。あたたかな色の光が灯っていることだけは分かる。  木製のその扉は重厚感があり、入るのには勇気がいる。その上、奇妙な看板が掲げられていた。 『運命の一冊はあなたを呼びます』 『運命の一冊に呼ばれるまで、あなたはこの店を出ることができません』  押し売りでもされるのだろうか。僕の中で警戒心がもたげる。だが、こういった演出は昨今では喜ばれそうだ。SNSで拡散されて話題が話題を呼ぶといったように。  急に俗っぽさを感じて、僕の気分は萎える。だが、本に呼ばれる、という体験には興味があった。  本が好きな人なら分かるだろうが、呼ばれる、という感覚は確かに存在する。  会うべくして会った。平台にも置かれていない本をなぜか手に取った。そういった本との出会いは胸を弾ませる。僕はもう随分とそんな体験をしていない。  僕は、今度こそ、と思いその扉を開けた。  中に入ると、そこは異空間だった。  五メートルほどの幅の空間に左右向かい合った本棚がどこまでも続いている。一本道になっており、その果ては見えない。あたたかな光が差すその空間。床や天井は木でできている。  本棚は二メートル弱のよく見る高さのものだが、木製でどこか重厚感がある。もちろんそこにレジは見当たらない。店員さえもどこにいるか定かではない。  僕は目を見開き立ち止まっていたが、その異様さに怖気づいて店を出ようと後ろを振り向いた。  そこにはすでに元来た道はなく、正面と同じ本棚の続く一本道となっていた。  そんなはずはないと僕は来た方へ足を進めてみる。だが、そこは目に映った通り、本棚の並ぶ一本道でしかなかった。  混乱した僕はポケットからスマホを取り出す。誰に連絡したらいいのか分からない。だが、この異様な空間に一人いるのは心細くてならなかった。  時刻は二十時三十二分、電波は圏外。どこに電話しようともつながらなかった。  焦りが募る。このままここから出られないなんて怪奇小説じゃあるまいし。  そこでふと頭に過ったのは店の入口にあった看板だ。 『運命の一冊に呼ばれるまで、あなたはこの店を出ることができません』  それなら運命の一冊を探し出すまでだ。  僕は歩き出した。  もう随分と歩いた気がする。時刻は相変わらず二十時三十二分だった。  運命の一冊は見つからない。  異空間だが、本棚に並ぶ背表紙は見知ったものが多かった。流行のものから古い名作まで。小説だけでなく、参考書や図鑑、画集や絵本もある。それらが規則性なく、だが整然と並べられていた。  そりゃあこれだけ本があれば運命の一冊や二冊は見つかるだろう。  だけど僕は見つけられない。  僕は運命の一冊を探して、延々と続く本棚の一本道を歩く。読んでみたいと思った本に指をかけてみる。だが本は棚から抜けない。本が僕の手に収まるのを拒んでいるかのようだ。  ここは不思議な空間なのだ。本に意思があってもおかしくない。僕はそう思い始めていた。  きっと本達は分かっているのだ。今の僕は本が読めないということに。  僕の部屋は本に溢れていた。だけど、そのほとんどが買った状態のまま本棚に片付けられている。読みたいのだ。だが、いざ本を開くと目が滑って文章が頭に入ってこない。  疲れているからか、僕が本に興味を失ってしまったのか。  いや、そんなはずはない。今度こそ読めるはずだ。今度こそ、今度こそ。  そう思って未読の本ばかりがたまっていく。読めないことを認められなかった。本から離れていく自分を認められなかった。あんなに好きだったのに。  そして愚行を繰り返す。  そんな僕の本棚に入りたい本などどこにもいないだろう。  僕は一生この迷宮から出られないかもしれない。これだけ本があっても本は僕を呼ばない。それは当然のことだった。  僕は一本道の中に立ちすくむ。  本棚を破壊すれば逃れられるかもしれない。本棚をよじ登るのもありだろう。ここは一本道なのだから。  だが、そうすれば本を傷つけてしまう。  この棚の本は僕の手では抜けない。本を移動させることはできない。  だとすれば、棚を破壊することは本をも壊すことだ。棚をよじ登ることは本を踏みつけることだ。  それはできなかった。だってここにあるのは本だ。読めなくても愛しい本達なのだ。  涙がにじむ。その雫で本が汚れないようにスーツの袖で涙をふき取る。  ふと疲れている自分に気づき、僕はその場に腰を下ろす。そして寝転がった。  壁のように並ぶ本たち。そのどれもが問いを、答えを、絶望を、希望を、あらゆる世界を、文章という形で収めている。僕はそれらがどれほど素晴らしいものかを知っている。  僕はそれを見つけるための、読む、という行為ができなくなった。それでも、その存在を愛していた。  目を閉じる。  きっと運命の一冊とは出会えない。ここからは出られないかもしれない。だけど、僕の心は凪いでいた。  僕はやはり本が好きだ。読めなくとも好きなのだ。  その事実を確認できた。それだけで充分だった。  がたんと身体が揺れて目が覚める。電車が駅に止まった。  突然戻ってきた日常に僕は首をかしげたが、目が冴えてくると夢を見ていたのだと納得した。  それにしても鮮明な夢だった。今でもあの入口の扉の重みや、引き抜こうとしても抜けない本の感触、寝転がって見上げた本達の姿がありありと蘇ってくる。  そして、やはり本が好きだ、と自覚したあの瞬間の感動も。  ワンルームの部屋に帰る。スマホを取り出そうとリュックを開くと、白いまちのない紙袋が入っていた。 「なんだこれ」  見覚えのないそれを取りだすとそこには『本結び堂』という赤いハンコが押されていた。  僕はごくりと息をのむ。  一呼吸した後、それを開く。中には本が一冊入っていた。表紙から中身に至るまで、その本は見たことのない言語で記されている。  僕はネットや本、知り合いにも頼ってそれについて調べてみたが、結局どこの言葉で何が書かれているのか分からなかった。  『本結び堂』はもちろんあれ以来見つからない。まさに異空間だった。もしかすると、この本も地球上のものではないのかもしれない。  だけど、僕は寝る前にその本を開く。ページを眺める。  何が書いてあるのだろう。  優しい物語? 難しい研究文書? それとも血なまぐさい呪われた内容だったりして。  無限の可能性と確かにそこに何かが記されているという事実。心が躍った。  しばらくすると憑き物が落ちたように再び本が読めるようになった。それでも、あの日出会ったあの本が今でも一番の愛読書だ。  まさに、運命の一冊。  僕は寝る前に本を開く。今でも内容はさっぱりだ。  それでもその本が秘めた素晴らしさに思いをはせ、僕は今日もページをめくる。 了
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