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…故郷?
しかし彼女は―― 星間鉱山コングロマリットが設営したヒューマンメディカルプラントの無菌ルームの中で、促成用の労働二級ヒューマンとして、感情機構を排して量産されたひとりに過ぎないだろう? その彼女に―― 故郷、などという帰属意識があること自体に、私は素直に驚いたのだ。
「私、この街が好きです。ここから見える景色が好きです。一年中凍っているあの湖が好きです。定期停電の夜にだけ見える、あの星空が大好きです。アカデミアの講義が好きです。先生の、鉱床学のビジュアル実習が好きでした。とくに結晶構造のところが好きでした。たくさん、好きなものがありました。ぜんぶ。ぜんぶ。今でも、私は大好きです。だから。行きたくない。行っても、ぜんぜん―― いいことなんてないと思うから。ほかにいい場所なんて、絶対、ないと思うから。だからです。だから。」
落下防止の手すりに両肘をのせて、凍てつく惑星の大気に向けて彼女は言った。私に向けて言ったというよりも―― 何かに向けて。それはあるいは、この星全体に向けて発せられた彼女なりの、公式の独立宣言文だったのかもしれない。おそらく、あるいは、そうなのだろう。
私は視界の隅で彼女の白い横顔をとらえ。大気の揺らぎに同調するように、わずかに揺れる彼女のプラチナグレイの髪の繊細な動きを視覚におさめた。
何も言えなかった。
何も言えない。私に何が言えるのだ。
私は。私は。彼女とともに二年半、アカデミアのセミナーホールで長く時間を過ごした後でも。
彼女の思考の内面を。まったく理解もしていなかった。深い思考をする習慣のない、凡庸なる二級ヒューマンの名もなき少女だと。労働に必要な実用情報以外には興味を示さない、人型をした自動機械の延長線上程度の存在だと。無意識のうちに、判断していた私は。まったく見ていなかった。まったく少しも彼女個人を―― 私は少しも、見ていなかったのだ。
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