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マザコン
靜子は、高島屋の食品売り場で会計を済ませると、孝次郎にメッセージを送った。
帰宅時間が遅れる理由を丁寧に説明し、謝罪をひとこと添えると、既読が付いただけで着信はなくなった。
混雑する店内で、夕飯の惣菜をせっせとエコバッグに詰めながら、不機嫌な夫の顔を想像する。
靜子は、胃がチクチクと痛むのを感じて、気分を切り替えようと高樹のことを想いながら、唇にそっと手をあてた。
やさしくて、それでいて情熱的なキス。
互いの冷たい鼻頭が擦れ合う感覚と、耳元をくすぐる息づかい。
繊細な指先。
筋肉質な体格とは裏腹の、寝癖のついた髪の毛。
靜子は、それ以上考えるのをやめた。
火照る身体が虚しくなるだけで、これからのことを想像すると尚更辛くなるからだ。
自宅に戻ると、リビングにも書斎にも孝次郎の姿はなく、
「またか…」
と、云う思いで靜子はベッドルームに向かった。
火曜日の19時。
区役所勤めの孝次郎が、日中ひっきりなしに電話をしてきた理由が、靜子にはわかっていた。
案の定、わざとらしい咳が聞こえる。
靜子は、ベッドルームの扉をノックして中に入ると、上半身裸でシーツに包まる孝次郎の姿にうんざりした。
サイドテーブルには、体温計とスポーツドリンクが、これ見よがしに置かれてある。
靜子は、孝次郎の行い全てが嫌いだった。
「ただいま、体調悪いの?」
靜子の問いに、ふてくされた口調で孝次郎が言った。
「…何度も電話したのに、見てわからないかな、朝から熱が出て動けなかったんだよ」
「だったら服くらい着ないと…」
「いや、熱のせいで暑いんだ」
「暑いの?寒気はないの?」
「暑いんだよ、ほら、触ってみてよ」
「それより体温計で計ってみたら?」
「いや、計ったよ、触ってよ、暑いんだ」
「わかったわよ…」
靜子は渋々と、孝次郎の首元に手を当てた。
本音は、身体に触れるのも嫌だった。
孝次郎は、靜子の身体をぐいっと引き寄せて、キスを求める顔をして、
「淋しかった、不安だった、あんなに電話したのに…」
「仕事だもん、仕方ないわよ」
「そうだけどさ、俺のこと心配じゃなかったの?」
「…」
「身体が熱いんだ…」
「冷たいもの持ってくるわ…」
「いいよ、しようよ」
「ダメよ」
「いいからさ、しようよ」
「ダメだったら、身体を休めたほうがいいわよ…」
靜子は、強引に孝次郎の腕を解いて言った。
「食欲はあるの?」
「ないよ…」
「何か食べたの?」
「食べてない」
「雑炊作るから、それまで寝てなよ」
「いらない…」
「だけど何か口にしないと…」
靜子がそう言いかけた瞬間、孝次郎は大声で叫んだ。
「いらないったら!藍子さんが後で来てくれるからいらない!」
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