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無限地獄
大村の両親は仲が悪く、父親も大酒呑みで暴力的だった。
愛人を、はなれの小屋に連れ込む父と、他人事として振る舞う母を見ながら育った大村は、
「こんな大人にはなりたくない」
と、思っていた。
酒を飲む度に思い出すのは、枯れ枝みたいにちいさくなった両親の亡骸で、棺の中の防腐剤の匂いと共に、大村の心を掻き乱す要因にもなった。
「不思議なものだ、俺はなりなくなかった人間になってしまった…血は血だ…抗える筈もない、俺は社会不適合者で病人だ」
と、自分を卑下しながら酒をあおる。
抜け出せない無限地獄は、大村の身体も蝕んでいった。
ある日のこと。
居間で内職の機織りをしていた詩織を、大村は理解出来ずにいた。
「金はいくらでもあると云うのに…何故働くんだ…そんなにこの家から出たいのか…?」
そっと襖を開けると、詩織は疲れた顔で大村に目を向けた。
色白の肌に大きな瞳。
その瞳は非難に満ちていると感じた大村は、
「文句あんならはっきり言え!」
と、声を張り上げた。
詩織は動じなかった。
それはまるで、父の不貞を無視し続けた母に似ていると、大村は感じた。
詩織は、ゆっくりと口を動かした。
「お酒はやめてください」
「は?」
「約束してくれましたよね、お酒はやめてください!」
「なんだと!お前はそんなに偉いんか!」
大村は詩織の髪を引っ張って立ち上がらせると、左頬を拳で殴り、その華奢な身体を蹴飛ばした。
詩織の鼻と口からは、真っ赤な血が流れ、畳にポタリポタリと滴り落ちた。
「胸くそ悪い!」
大村は家を飛び出した。
詩織に涙は残っていなかった。
泣いているだけの生活に、詩織は疲弊していた。
出会ったばかりの大村は、やさしくて頼もしかった。
戦争孤児だった詩織の理解者であり、兄貴のような存在でもあった。
ところが、今の詩織にとって大村は、
「出来損ないの人間」
それだけだった。
詩織には、些細な楽しみもあった。
はなれの小屋で。子猫を育てていた。
大村が忌み嫌う住処で、子猫は無邪気に飛び跳ねて、部屋の隅の、日当たりの良い場所を寝ぐらにしていた。
子猫と触れ合う中で、詩織はいつか自立したいと考えるようになった。
「行かなきゃ」
詩織は畳の血だまりを拭き取ると、台所からかつお節の袋を手に取って外へ出た。
口の中は鉛のような味がしていた。
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