6栗色

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6栗色

紗綾のバイト先の店は雑居ビルの二階にあるカジュアルな洋食チェーン店だ。 店内は漆喰塗りの白壁と栗色の床材を使用したシックな内装で、お洒落ではあるが、チェーン店であることに変わりはない。 利用客は家族連れも多いが、二十代や三十代のグループなども多い。 フロアに配属された新入りバイトの「烏野涼太(からすのりょうた)」は、早くも若い女性客たちの注目を集めているようだ。 背が高くスラっとした彼は、店の制服である黒のギャルソンエプロンがよく似合っているし、何よりその顔立ちが整っていた。 ヒソヒソと話す女性客たちの声が、意識していなくても否応なしに紗綾の耳に入りこんでくる。 「ねえねえ、あの人、カッコイイよね…」 「だよね…」 「芸能人とかモデルなのかな…」 「SNSやってるかな?フルネーム分かったら、検索してみようよ…」 (ああいう見た目の人って、モテるんだね……。そりゃ、そうだよね……。) 紗綾は自己嫌悪に陥っていた。 連続で「良太」という名の男性の夢を立て続けに見てしまった理由。 それはただ、人気のありそうな理想的な容姿の男性を、自分自身の脳内で作り上げてしまっただけなのだろう……。 あの夢の「良太」と現実の「烏野涼太」は、名前まで読みが同じで「りょうた」だ。 よくある名前だし、なんとなく自分で気に入っていた名前なのだろう。 彼らの外見で、唯一異なっていたところは、髪型だけだ。 あの夢は、全体的に昭和レトロ感が漂っていて、誰もかれもが丸坊主に近かった。 同じようなルックスであっても、現代のリアルな髪型であれば、かなり異なった印象にはなる。 しかし、それにしてもその二人(と言えるかどうかは分からないが…)の容姿はほとんど同じだった。 そしてあまりにも信じたくないのは、そんな妄想の相手に対して…… やたらと気分が盛り上がったり落ち着かなかったり、心臓がドキドキしたり。 リアルで経験したこともないような感情に襲われてしまったことだった。 (あまりに男性に縁がなさ過ぎて、頭が変になってしまったのかもしれない……) そんな風に考えてしまうと、情けないやら恥ずかしいやらで、紗綾の自己肯定感が奈落の底に落ちていくようだ。 きっとそれはいつの日か、木っ端みじんに砕け散り、二度と元の姿に再生することはできなくなってしまうのかもしれない。 (いけないいけない、とりあえず落ち着こう。あまり変な想像をしないようにしよう……) 新入バイトの「烏野涼太」はあっという間にスタッフに馴染んだ。 「烏野くん」という呼び方から「涼太くん」になるのにあまり時間はかからなかった。 店長にも気に入られ、厨房スタッフのおじさんたちや、洗い場の学生バイトにも可愛がられているようだ。 厨房スタッフの男性たちは、なぜか筋トレマニアのような人が多く、制服の調理着に包まれた彼らの上半身はムキムキしている。 「涼太くん」はフロア担当だが、厨房の人たちとも仲良く会話している。 詳しくない人間にはよく分からない筋肉の名称だとか、トレーニング方法の話が頻繁に聞こえてくるようになった。 「すごいですね……。どうやったらそんなに筋肉が大きくなるんですか……??」 時折、涼太くんのそんな声が聞こえてくる。 「いやあ、俺なんか、そうでもないよ……。……いやいやいや。誰だって鍛えれば、これくらいにはなるよ……。」 謙遜しながらも、スタッフたちは「涼太くん」にほめられてまんざらでもないらしい。 「こうやってさ、このトレーニングで鍛えるわけよ……」 おじさんたちはちょくちょく彼の前で誇らしげにボディビルダーのようなポーズを取り、もっとほめて欲しそうにしていることもある。 女性たちにはなんとなく理解しづらい微妙な雰囲気が、厨房に漂い出した。 それは一種異様な空気感だった。 だが、その誇らしげなやり取りが醸し出す高揚感は、男女を問わずスタッフ全体に広がった。 以前より皆の仲が良くなり、笑顔が増え、紗綾はバイトに行くのが楽しくなったような気がする。 来店客の少ない時間帯などは、同じ学生フロアバイトの加恋さんも「涼太くん」に近寄って、話しかけている機会が多い。 彼と加恋さんが二人で話しているのを眺めていると、二人とも美男美女で、いかにもお似合いの二人という感じがする。 なんとなく、加恋さんの目つきがうっとりしているように見えるのは、気のせいだろうか。 たまに、川本が洗い場の方向から二人を疑うような鋭い視線を飛ばしていたが、きっと二人は気づいていないはずだ。 (加恋さんは彼氏持ちってこの前聞いたけど、涼太くんと付き合ってても、全然違和感ないよね…。はあ、お似合いだなあ……。二人とも、素敵……。) 普段の紗綾なら、ただ単に「素敵」と感じて終わる。確かにそのはずだった。 だが涼太と加恋さんが一緒にいるのを見ると、紗綾はいつもの自分では感じないような複雑な感情が湧き出した。 その痛みにも似た感覚は、なぜか頭にこびりついて離れない。 (加恋さん、可愛いもんね。もし私が男性だったとしても、きっと加恋さんみたいな素敵で華やかな女性を好きになってたんだろうな……。) (それに引き換え、私って本当に地味だもんね……。きっと、透明人間みたいに、居ても居なくても気づかれてないかもしれない。) 「遠藤さん。」 突然呼びかけられ、紗綾は驚いて飛び上がった。 「……!!は、はい!」 話しかけたのは、他でもない、その涼太くんだった。 「すみません、これ、どうしたらいいですか?」 洗浄済みコップをトレーに乗せた涼太に、リラックスした口調で業務の質問をされた。 紗綾がたまたま近くに居て、あまり忙しそうにしていなかったため、声を掛けたのだろう。 「あ、それはね……」 驚いて飛び上がったのを誤魔化すように、そそくさと説明する。 場所を教えようと移動しつつ、紗綾は意外に感じていた。 (私の名前、憶えててくれたんだ…) 「普段はね、ここに予備のコップを置いてるんだけど、もし置く場所がいっぱいだったらあっちに……」 (とにかく、挙動不審にならないようにしなくちゃ。こんなに慌ててたら、変に思われちゃう!)
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