7胡粉色

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7胡粉色

その時、焦って説明したせいか、手が滑ってコップに当たってしまった。 「あっ……!」 パリーン! 派手な音がフロアに響いた。 一個のガラスコップが、大きな一つのかたまりの破片、二三の小さめの欠片、そして細かい破片に分かれて砕けた。 (うわあ、やっちゃった……。) 「あっすみません!」 「え?」 「僕が急に話しかけたりしたから、驚かせてしまって…。大丈夫ですか?」 「そ、そんなことないよ! ごめんなさい、私がうっかりしただけだから…。」 派手な音に驚いて、心配そうな表情の加恋さんもやって来る。 「紗綾ちゃん、大丈夫??」 「ありがとう、大丈夫です、ごめんなさい……。あっ、私、箒とチリ取り持ってこなくちゃ!」 紗綾は逃げるように、慌ててその場を離れた。 (私って……どうしてこうなっちゃうの??) 何故だか涙がにじんできて、その場にはいたたまれなかった。 世の中には、CMに出てくるモデルみたいなキラキラした男性や女性が居るけれど、自分みたいな地味でヘマをしがちな人間もいる。 世の中は不公平なのかもしれない。 (そんなことは分かってるつもりだったけど……。どうしてよりによって涼太くんに、迷惑をかけてしまうんだろう?) (どうしてそんなキラキラした人たちと、同じ時間に同じ場所に、私はいるんだろう……?) 箒を取りに行きながら、誰にも見られないようにこっそりと袖で目の周りを拭く。 たったこれしきの些細なことで、どうして泣きそうになるのか、自分でもよく分からなかった。 涼太と加恋さんは破片を片付けるのも手伝ってくれた。 その最中も紗綾は二人に何度も謝り、それでいて彼らのその視線を直視することは出来なかった。 ただただ自分が情けなくて、消えてしまいたかった。 ◇◇◇◇◇◇ 紗綾の勤務するレストランは高級な店ではなくカジュアル路線なので、本来ならあまりクリスマスイブで混雑するようなタイプの店ではない。 しかしイルミネーション会場が近いため、たくさんの人が見終わった後の流れで来店する。 この店のクリスマスの混み方は予約で埋まるのではなく、立地のため人が絶えず訪れるのが原因だ。 イルミネーション期間が始まってから来客数は多くなり始めるが、イブの日はピークを迎える。 クリスマスイブの夜、入口は順番待ちのお客であふれていた。 これだけなら土日のピーク時によく見られる光景だったが、今夜はやはり人数が多かった。 早めの時間から混雑が始まって、すぐに満席になる。 会計が済んだ客が立ち去っても、いそいでテーブルを片付け、次の客を入れなければならない。 「オーダー!!オーダー取りに行って!!」 店長は次第に鬼の形相と化し、話し方も大声で絶叫するようになっていた。 いつもとはほぼ別人格のようにすら見え、それは勤務一年目のスタッフは見たことのない店長の姿だった。 ピンポン。ピンポン。 客の注文のチャイムが店内に絶え間なく響く。 フロア担当がなかなか行けないため、「すみませーん」と実際に声を掛ける客も出現した。 紗綾は恐怖を感じた。 (……視線が怖い!!ああ、お願い、お客さんたち、こっち見ないで!!) オーダーを取りに行こうとするが、グラスがないことに気づく。 紗綾は仕方なく、洗浄して乾燥機から出したばかりの熱々のグラスを使うことにした。 冷やすために氷水を入れるが、無事に冷えても濡れているので拭かなければならない。 「料理ーーー!!料理運んで!!」 料理が配膳台にあふれている。 (どのテーブルの料理……!?) 紗綾が戸惑っていると、 「あれ、遠藤さんのテーブルです。」 涼太が通りすがりにそっと告げた。 「あ、ありがと……」 紗綾はお礼を言おうとしたが、涼太はすでに洗い場の方に消えていた。 「テーブルーーー!!テーブル片づけて!!」 相変わらずヒステリックな店長の指示が飛ぶ。 急いで片づけ、重ねた皿を洗い場へ運ぼうとするが、従業員が普段より多いため、狭い作業場ではすれ違うのも大変だ。 なんとか持っていくとそこには皿が山積みで、置き場所がなかった。 「下げてきた食器、どうしたらいいですか??」 「うーん、その辺に適当に積んどいて!!」 ジャガイモのような顔に汗を浮かべた洗い場担当バイトの川本が答えた。 普段は昼のシフトに入っているベテランパートの中年女性が、今夜は特別に出勤してくれていて、二人とも必死で作業をしている。 決して彼らのスピードが遅いわけではなかったが、いかんせんいつもの量とは桁違いなのだ。 「あ、洗い機の温度、ぬるくなってる。…あー!やり直しだ…。」 川本はイライラしている。 皿が足りなければ料理が提供できなくなってしまう。 ドミノ倒しのように業務が滞る。 厨房はずっと殺気立っている。 店長の怒号が飛ぶ。 イライラがスタッフ全体に広がる。 これでは悪循環のスパイラルだ。 ピンポン。「すみません、お水くださーい!」 フロアに声が響いた。 ピンポン。「あのー、追加の注文したいんですけどー。」 こちらは初々しい学生らしきカップルだ。 ピンポン。「さっき頼んだやつ、まだですか?もうだいぶ待ってるんだけど。」 イライラした表情の男性。これは至急確認しなければならない。 スタッフは総出で対応しているが、なおも店内からは容赦なく声が上がる。 「すみませーん、会計お願いしまーす。」 「ありがとうございますー!!」 フロア担当が誰も行けそうにないため、店長が飛び出し、急ぎ足でレジへと向かう。 「キャーッ!!」 店内の一角から複数の悲鳴が上がった。 女性客が申し訳なさそうに告げた。 「すみませーん、子どもがジュースこぼしちゃって!」 都会の明かりに照らされた夜空には、陽気なクリスマスソングがエンドレスで流れている。 この一年のうちで最も賑やかな冬の一夜は、享楽を謳歌する大多数の人たちと、懸命に勤労し続ける少数の人たちで構成されていた。
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