8灰汁色

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8灰汁色

初めてのクリスマスイブの勤務の忙しさをなんとかやり過ごして、紗綾は燃え尽きたような感覚に陥っていた。 クリスマスイブの夜の臨時応援に来ていた、普段昼のシフトに入っているパートの主婦たちは、もう既に帰宅している。 まだ残っているのは社員たちと、普段から夜のシフトに入っている学生バイトだけだった。 「今日はありがとう!いや~~二人とも、本当に助かったよ!」 先ほどまでの鬼の形相とは打って変わって、店長はいつもの嘘っぽい笑顔に戻っている。 それでも今夜を乗り切った安堵感はそれなりに表れていた。 「こんなに忙しいと思ってなかったので正直慌てましたけど、皆さん平然とこなしてて、さすがですよね!」 涼太はそつなく答える。 「いやいやいやいや……まあ~、毎年のことだからね……。まあ、慣れ……って、やつかな??」 店長は露骨にニヤニヤして、腰かけた椅子で誇らしげにふんぞり返った。 この笑顔はまったくもって自然で、嘘っぽさは微塵も感じられない。 「……私、あまり上手く出来なかったかもしれません……。」 紗綾は神妙に答えた。 「いやいや、大丈夫!あれだけやってくれたら十分だよ!!いやー、みんなのおかげでなんとか無事に今年もクリスマスをしのげたよー!それに、売り上げの方も、好調でね!!」 店長は本音を表れているような高いトーンで話し続ける。 「いやー、良かった良かった、これで肩の荷が下りたあ~~。一年のピークが終わった~~」 プレッシャーからの解放感なのか、それとも涼太に褒められたせいなのか。 店長の機嫌はかなり良さそうだった。 「二人とも、気を付けて帰ってね…。…あっそうそう、実はこの前、ビルの前に不審者がいたらしいんだわ。」 店長の八の字の眉がグイッと下がった。 「だから、しばらくの間、女性はできれば駅くらいまで、なるべく夜は一人にならないようにしてほしいんだよね…。」 店長は心配そうに瞬きすると、紗綾と涼太の顔を交互に見つめた。 「じゃあ僕、駅まで遠藤さんを送りますよ。」 (……えっ!?) 紗綾は固まった。 「ああそうか、それなら安心だわ。よろしくね~~!!」 目を白黒させている紗綾の様子など、なぜだか二人ともまったく気に留めてはいない。 (……えっ!?それって涼太くんと二人で帰るってこと……!?ちょっと待って……!!) 「それじゃあ支度して帰りましょうか、遠藤さん。」 振り向いて笑う涼太はやはり爽やかだ。 (ちょ……ちょっと待って……!!!!) 「あ、川本さん、お先に失礼します。」 「お疲れ様です。お先に失礼します。」 「おう、おつかれーー。」 紗綾と涼太は洗い場担当バイトの川本とすれ違った。 洗い場はホールスタッフよりどうしても遅くなるため、やっと今になって勤務が終わったようだ。 川本の声は力なく、表情にも疲れがにじみ出ていた。 軽い足取りでビルの階段を下りながら、涼太は鼻歌を歌っている。 (涼太くんって、元気だなあ……。疲れてないのかな?) 緊張しながら彼に続いて階段を下りている紗綾の耳にも、かすかにその旋律が聞こえてくる。 (何の曲だろう?聞いたことがあるんだけど……思い出せない。) 表に出ると、さすがに十二月の夜の寒さは凍るようで、肌を刺すような冷たい風も吹いている。 吐く息は真っ白になるが、あっという間に風に飛ばされて行く。 先に出て、あちこちを見渡していた涼太が振り返った。 「大丈夫、不審者らしき人は居ないみたいですよ。」 紗綾はぶるっと震えると、持っていたマフラーをぎこちなく自分の首に巻きながら続けた。 「あ、ありがとう……。こ、怖いよね、変な人が居たら…。えっと、涼太くんに確認してもらえて、良かったです。」 (もしかして、その不審者って、加恋さんに片思いしてる男性だったりして…) そう思ったものの、そんなことは口には出せない。 二人で並んでゆっくりと、冷たい風に吹かれながら駅の方向へ向かう。 涼太も歩きながらマフラーをまき、手袋をつけた。 彼の髪とマフラーの端が、風にたなびいている。 店の見慣れた制服姿ではない、私服の涼太の姿も、控えめに言ってモテそうだと思った。 (男の人と二人でこんな風に夜の道を歩くの、初めてかもしれない……。) 紗綾の緊張はいやが上にも高まった。 (どうしよう……何か言わなきゃ……。あ、そうだ……。) 紗綾はお礼を言っていなかったことに気づいた。
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