4人が本棚に入れています
本棚に追加
8灰汁色
初めてのクリスマスイブの勤務の忙しさをなんとかやり過ごして、紗綾は燃え尽きたような感覚に陥っていた。
クリスマスイブの夜の臨時応援に来ていた、普段昼のシフトに入っているパートの主婦たちは、もう既に帰宅している。
まだ残っているのは社員たちと、普段から夜のシフトに入っている学生バイトだけだった。
「今日はありがとう!いや~~二人とも、本当に助かったよ!」
先ほどまでの鬼の形相とは打って変わって、店長はいつもの嘘っぽい笑顔に戻っている。
それでも今夜を乗り切った安堵感はそれなりに表れていた。
「こんなに忙しいと思ってなかったので正直慌てましたけど、皆さん平然とこなしてて、さすがですよね!」
涼太はそつなく答える。
「いやいやいやいや……まあ~、毎年のことだからね……。まあ、慣れ……って、やつかな??」
店長は露骨にニヤニヤして、腰かけた椅子で誇らしげにふんぞり返った。
この笑顔はまったくもって自然で、嘘っぽさは微塵も感じられない。
「……私、あまり上手く出来なかったかもしれません……。」
紗綾は神妙に答えた。
「いやいや、大丈夫!あれだけやってくれたら十分だよ!!いやー、みんなのおかげでなんとか無事に今年もクリスマスをしのげたよー!それに、売り上げの方も、好調でね!!」
店長は本音を表れているような高いトーンで話し続ける。
「いやー、良かった良かった、これで肩の荷が下りたあ~~。一年のピークが終わった~~」
プレッシャーからの解放感なのか、それとも涼太に褒められたせいなのか。
店長の機嫌はかなり良さそうだった。
「二人とも、気を付けて帰ってね…。…あっそうそう、実はこの前、ビルの前に不審者がいたらしいんだわ。」
店長の八の字の眉がグイッと下がった。
「だから、しばらくの間、女性はできれば駅くらいまで、なるべく夜は一人にならないようにしてほしいんだよね…。」
店長は心配そうに瞬きすると、紗綾と涼太の顔を交互に見つめた。
「じゃあ僕、駅まで遠藤さんを送りますよ。」
(……えっ!?)
紗綾は固まった。
「ああそうか、それなら安心だわ。よろしくね~~!!」
目を白黒させている紗綾の様子など、なぜだか二人ともまったく気に留めてはいない。
(……えっ!?それって涼太くんと二人で帰るってこと……!?ちょっと待って……!!)
「それじゃあ支度して帰りましょうか、遠藤さん。」
振り向いて笑う涼太はやはり爽やかだ。
(ちょ……ちょっと待って……!!!!)
「あ、川本さん、お先に失礼します。」
「お疲れ様です。お先に失礼します。」
「おう、おつかれーー。」
紗綾と涼太は洗い場担当バイトの川本とすれ違った。
洗い場はホールスタッフよりどうしても遅くなるため、やっと今になって勤務が終わったようだ。
川本の声は力なく、表情にも疲れがにじみ出ていた。
軽い足取りでビルの階段を下りながら、涼太は鼻歌を歌っている。
(涼太くんって、元気だなあ……。疲れてないのかな?)
緊張しながら彼に続いて階段を下りている紗綾の耳にも、かすかにその旋律が聞こえてくる。
(何の曲だろう?聞いたことがあるんだけど……思い出せない。)
表に出ると、さすがに十二月の夜の寒さは凍るようで、肌を刺すような冷たい風も吹いている。
吐く息は真っ白になるが、あっという間に風に飛ばされて行く。
先に出て、あちこちを見渡していた涼太が振り返った。
「大丈夫、不審者らしき人は居ないみたいですよ。」
紗綾はぶるっと震えると、持っていたマフラーをぎこちなく自分の首に巻きながら続けた。
「あ、ありがとう……。こ、怖いよね、変な人が居たら…。えっと、涼太くんに確認してもらえて、良かったです。」
(もしかして、その不審者って、加恋さんに片思いしてる男性だったりして…)
そう思ったものの、そんなことは口には出せない。
二人で並んでゆっくりと、冷たい風に吹かれながら駅の方向へ向かう。
涼太も歩きながらマフラーをまき、手袋をつけた。
彼の髪とマフラーの端が、風にたなびいている。
店の見慣れた制服姿ではない、私服の涼太の姿も、控えめに言ってモテそうだと思った。
(男の人と二人でこんな風に夜の道を歩くの、初めてかもしれない……。)
紗綾の緊張はいやが上にも高まった。
(どうしよう……何か言わなきゃ……。あ、そうだ……。)
紗綾はお礼を言っていなかったことに気づいた。
最初のコメントを投稿しよう!