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辛くなんてなかった。
羨ましくなんてなかった。
お父さんが居なくても。
お母さんが僕を見てくれなくても。
期待していなかったから。
自分にも他人にも。
生まれた時から全てを諦めていた。
そんな気がする。
【キミのミカタ】
古いアパートの一階。
朝起きてもお母さんは居ない。
一人で菓子パンを食べてから学校に向かう。
もう四年生なのに身体が小さい僕は、クラスのイジメっ子の標的だった。
みんなガキだな、と思う。
どうせ誰も助けてくれないし。
無駄だから泣かないことにしてる。
その日も下校中にイジメっ子に絡まれた。
石とか投げて来てウザい。もう構わないで欲しかった。
顔を上げると、前から郵便屋さんが赤いバイクに乗って近付いて来た。
女の人だった。
女の人は珍しいし、ものすごい美人だったから思わず目で追う。
そしたら郵便屋さんのバイクが急ブレーキをかけて止まった。
イジメっ子たちもそっちを見てる。
彼女は綺麗な顔に爽やかな笑みを浮かべて言った。
「そこの君たち。楽しそうだねぇ」
楽しくねーし。どこをどう見たらそう思えるんだよ。
「私も混ぜてくれないか?」
美人なお姉さんに声を掛けられてイジメっ子たちはモジモジしてた。
「この石を投げるんだろ?こんな風に」
郵便屋さんが指先で石を弾く。
高速で撃ち出された石は古い板塀を貫通した。
僕も驚いたけど、石がすぐ横をかすめたイジメっ子は真っ青な顔で震えてる。
「おや。外れたね。もう一回」
郵便屋さんが次の石を拾い上げている間にイジメっ子たちは逃げて行った。
もしかしてこの人……僕を助けてくれた?
「こんなことしてる場合じゃなかった。じゃあね。真っ直ぐ帰るんだよ」
お姉さんはまたバイクに乗って颯爽と走り去る。
それから毎日。
下校中にお姉さんとすれ違った。
おかげでイジメっ子に絡まれることは無くなった。
だから安心してたんだけど。
二学期の最後の日だった。
いつもより帰りが早くて。
お姉さんとは会わなかった。
後ろから引っ張られて尻もちをつく。
またアイツらだ。
僕から無理矢理ランドセルを奪ったイジメっ子は、それを大きな水路に放り投げた。
ゆっくり流されるランドセル。
僕は何も考えず水路に飛び込んだ。
後から考えると、あれはお母さんが苦労して買ってくれたものだったから。
無くしたくなかったんだと思う。
水は冷たかった。
そんなに深くない水路だけど。
なかなか追いつかなくて、だんだん身体が動かなくなって来た。
このまま死ぬのかな。
それでもいいと思った。
薄れる意識の中。
誰かが僕の手首を掴む。
力強く引っ張られて、水面から引き上げられた。
「しっかりしな!」
郵便屋のお姉さんに抱き上げられたと気付いた直後、僕は意識を失った。
◆
気付いたら病院のベッドの上だった。
郵便屋のお姉さんが心配そうに見下ろしてる。
やっぱり美人だった。
雰囲気、ちょっと怖いけど。
「あの……ごめんなさい」
「何で謝るんだ」
「迷惑かけて……」
「アンタは悪くないだろ。悪いのはあのクソガキ共だ」
アイツらは警察に連れて行かれて親を呼ばれたらしい。
いい気味だと思った。
病室には僕とお姉さんしか居ない。
「……あぁ。アンタの母親にも連絡したんだけどね。電話を切られて」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「お母さん、僕より男が大事だから」
だからほとんど家に帰って来ない。
育児放棄、とか言われた。
「大丈夫。慣れてるから」
「慣れるんじゃないよ」
「助けてくれてありがとうございました」
「助けて欲しくなかった。って顔だね」
お姉さんの言葉が胸に刺さる。
確かにそう思ってた。
お母さんにとって僕は要らない子だし。
死ねば少しは僕のことを考えてくれると思った。
「私は許さないよ。死のうなんて思うんじゃないよ」
「関係ないだろ」
「関係ある。私はアンタに関わった。もう他人じゃない」
「じゃあ助けてくれるの」
「あぁ」
「どうやって」
「うちに来な」
お姉さんは本気みたいだった。
今まで表面だけ僕の心配して何もしてくれなかった大人とは違う。
「……いいの?」
「子供一人養うくらいの甲斐性はあるつもりだよ」
本当は嬉しかった。一緒に暮らせたら、って思った。
でも無理だ。
いい人だから迷惑をかけたくない。
「……悠希!」
病室に飛び込んで来たのはお母さんだった。
青い顔をして、慌てた様子で。
演技かもしれない。
そんなことを考える自分が嫌だった。
「大丈夫?ごめんね、遅くなって」
「……ごめんなさい。心配かけて」
お母さんはお姉さんの存在に気付いて頭を下げる。
「息子がご迷惑を……」
「別に迷惑なんて思っちゃいないけどね。ひとつだけいいかい」
「……はい」
お母さんの手が僕の手を強く握る。
怖いのかな。お姉さんのこと。
「まともな世話も出来ないなら手放しな」
低くて、鋭い声。
僕も少し怖かった。
「どういうつもりか知らないけどね。子供より大切なもんがあるってんなら母親なんてやめちまいな」
お母さんは泣きそうだった。
お姉さんが言ってることは正しいと思う。
でも。
「やめてください!」
僕はお姉さんに向かって叫んでた。
どんな人でも僕にとっては唯一の母親だから。
「僕は大丈夫だから。もう放っておいてください」
「……あぁ。分かった。悪かったね。余計なことだった」
お姉さんはお母さんに頭を下げて病室を出て行った。
悪いことをしたとは思ったけど。
僕がお母さんを守らなきゃって。
僕が強くならなくちゃって。
そう、思った。
◆
それからお母さんは家に帰って来るようになった。
お姉さんに言われたことを気にしてるんだと思った。
「お母さん。僕、大丈夫だから。無理しないで」
朝。学校へ向かう前にお母さんに言う。
自分のせいでお母さんが我慢するのが嫌だった。
「ありがとう、悠希。お母さん、ちゃんとするから。これからはずっと一緒に居られるように」
「……うん」
学校でのイジメは無くなったし。
お母さんは帰って来てくれたし。
僕も幸せになっていいのかな。
「……お姉さんに謝らなくちゃ」
下校中に少し待ってみたけど、お姉さんとは会えなかった。
どこに行けば会えるんだろ。
やっぱり郵便局かな。
アパートに帰って玄関を開ける。
そこに脱ぎ散らかした男の人の靴があった。
部屋の中は静かだった。
「……お母さん?」
怖かったけど部屋に入る。
居間の床にお母さんが倒れてた。
「お母さん!どうしたの!?ねぇ、お母さん!」
お母さんは動かなくて。
首に誰かの手の跡がくっきり残ってた。
「……お母さん!起きてよ!おか……」
後ろから口を塞がれた。
耳元で男が黙れと言う。
……こいつがお母さんを殺したんだ。
僕のことも殺すつもりだ。
昼間だから隣の人たちも居ない。
逃げて外に助けを求めるしか無い。
早く救急車を呼べばお母さんは助かるかもしれない。
僕は男の手に思い切り噛み付いた。
驚いた男の手の力が緩んだ。
すり抜けて玄関に走る。
ドアを開けて靴下のまま外に飛び出した。
そして大声で助けを求める。
近所は留守の家が多い。
僕は大きな通りまで出た。
通り過ぎた赤いバイク。
……お姉さんだ。
声を出しかけてやめる。
またお姉さんに迷惑がかかると思った。
誰か別の人を探さなきゃ。
走り出した僕の耳に急ブレーキの音が聞こえた。
振り向いたらお姉さんのバイクが旋回してこちらに走って来る。
嬉しかった。
お姉さんは僕を見てくれてた。
存在に気付いてくれた。
道の端にバイクを停めたお姉さんは僕が靴を履いていないこと、服が乱れているのを見て何があったのか悟ってくれて。
携帯電話を取り出して警察を呼んだ。
安心した僕は急に怖くなってしまって。
震えながらその場に蹲る。
お姉さんも隣にしゃがみ込んで、僕の肩をさすってくれてた。
パトカーと救急車のサイレンの音で周りが騒がしくなる。
お姉さんにおぶわれて家に戻ったら、救急隊員のお兄さんたちが中に入って行くところだった。
男の姿は無くて。
警察の人達が慌ただしく動いてた。
「……お姉さん」
「何だい」
「ありがとうございました。お仕事に戻ってください」
「この状況で戻れる訳ないだろ」
「でも。手紙を待ってる人が居ると思います。僕は大丈夫。平気だから」
お母さんが居なくなっても。
強く生きて行かれる。
「強がるんじゃないよ子供が」
「強がってなんか」
そう言ったらお姉さんは突然、身体を後ろに反らせた。
落ちそうになった僕は慌ててしがみつく。
「出来るじゃないか」
「……え?」
「みっともなくてもいいんだよ。生きるってのは綺麗なことだけじゃない。無様に助けを求めたっていい。こうやって誰かにしがみついて生きてもいいんだ」
「……でも。迷惑かけたらいけないって」
「誰かに迷惑かけたら。その分、誰かを助ければいい。私も昔は迷惑かける方だったからね。そうして人生、チャラにするんだよ」
そんなこと言う大人は初めてだった。
みんな人に迷惑をかけないように生きましょう、しか言わなかったから。
自然と涙が零れた。
泣きじゃくる僕をあやすように、お姉さんが身体を揺らす。
生きていいんだ。
こんな僕でも。
誰からも必要とされなくても。
誰からも、愛されなくても。
大切な人を守れるように。
いつか恩返し出来るように。
◆
「真城悠希です。よろしくお願いします!」
あの日から八年。
僕は郵便局に就職した。
自宅の近くの局に配属になった僕は、懐かしい通学路を赤いバイクで走る。
こんなに狭い道だったんだ。
いつの間にか大人になったことを実感する。
僕が就職した時には、お姉さんは少し遠い局の勤務になっていた。
一緒に働きたかったな。
あれからすぐに犯人は捕まった。
僕はお母さんの交際相手がやったと思っていたけど違った。
男はお母さんのストーカーだった。
美人で評判だったお母さんだから、変な男に目を付けられて。
家に押し入った男はお母さんに性的暴行を加えようとしたけど、激しく抵抗されて首を絞めた。
そこへ僕が帰宅した。
救急車で病院に運ばれたお母さんは意識を取り戻して。
障害は残ったけど、今も元気に暮らしている。
あと少し遅ければお母さんは死んでいたかもしれない。
お姉さんのおかげで、僕たち親子は生きている。
彼女は僕の憧れの人。
僕も誰かを助けられる人になりたい。
近くの小学校の下校時間。
通り沿いの家の前にバイクを停めてポストに郵便物を入れる。
次の家に向かう為バイクに乗ろうとした僕の横を、ミントグリーンのランドセルを背負った小さな女の子が歩いて行った。
何処か元気が無い。
気になって目で追っていると、後ろから三人の男の子が走って来て女の子の頭を叩いた。
彼らは口々に女の子を罵っている。
母親に捨てられた、とか、要らない子供、とか。
女の子は黙って耐えていた。
唇を噛んで俯いて。
僕は静かに歩み寄った。
そして声をかける。
「君たち。楽しそうだね」
突然、現れた大人の僕を男の子たちは警戒している。
「僕も混ぜてくれない?」
そう言ってヘルメットを取る。
明るい茶髪の僕を見て、彼らは「不良だ!逃げろ!」と一目散に駆けて行く。
「大丈夫?」
しゃがんで女の子と視線の高さを合わせながら聞く。
人形のように愛らしい顔立ちの彼女は黙って頷いた。
次の言葉を探す僕に頭を下げて、女の子は歩き出す。
追いかけようかと思った。
でも出来なかった。
彼女の瞳が、あまりに暗い絶望に満ちていて。
あれは幼い頃の僕の目だ。
助けたいと思った理由は、たぶん偽善。
彼女を救うことで過去の自分も救える気がした。
それは正しくない気がする。
でも、あの人なら、きっと。
「ねぇ、君。ちょっと待って」
呼び止めると女の子は少しだけ振り向いてくれた。
僕は彼女に名刺を渡す。
そして、笑って言った。
「十年後に僕と、デートしよう」
困った様子の女の子に僕は続ける。
「だから。それまで元気でいてね。約束」
彼女の瞳が、少しだけ明るくなった気がした。
◆
「真城さん」
いつも通り立ち寄った文具店。
店主の彩ちゃんが真剣な表情で僕の名前を呼ぶ。
「なに。どうしたの改まって」
「昨日。部屋の整理をしていたんです」
「うん。それで?」
「そしたら、コレが出て来て」
彩ちゃんが手渡したのは、古ぼけた僕の名刺だった。
「私、貰った覚え無いんですけど」
「……なるほど」
あのミントグリーンのランドセルの少女は。
「彩ちゃんだったのか……」
「え?」
僕が手を握ると、彩ちゃんはあからさまに嫌な顔をする。
「……傷つくなぁ。何その顔」
「私、人妻なんですけど」
そうだった。
彩ちゃん、鐡さんと結婚したんだよな。
僕は手を離す。
「十年前に約束したのに。忘れたの?」
「何の約束ですか」
「十年後にデートしよう、って」
少しの間。
彩ちゃんの顔が明るくなる。
「あ……あの時の!あの、チャラ男!?」
「そういう認識!?僕、彩ちゃん助けたよね!?ヒーローだよね!?」
「真城さんだったんだ」
「そう。僕でした」
「小学生ナンパするなんて最低な大人だなって思ってました」
「ひどっ!」
「わかりました」
「何を?」
今度は彩ちゃんが僕の手を握る。
「紫信さんは私が説得しますから。デート、しましょう」
「いいの?ホントに?」
「だって。約束ですから」
「僕のデートコース。初回からラブホがゴールだけど」
彩ちゃんの顔から笑みが消えた。
「最低ですね」
「僕だって男だからね。可愛い女の子とイチャイチャしたいの」
「私のこと女として見てないくせに」
「そんなことない」
「色を見れば分かります」
「女性として見てないけど、人として好きだから」
そしたら何故か彩ちゃんは頬を染めた。
え?脈アリ?
と思ったら、彼女は物凄い力で僕の手を握り締める。
「痛い!痛いよ彩ちゃん!何!?僕何かした!?」
「今、私のこと女として見ましたよね」
「それの何がいけないの!?」
「そんなの真城さんじゃありません」
「彩ちゃんにとっての僕って何なの」
「正義のヒーローです」
予想外の答えに僕は絶句した。
「あの時、真城さんに出会っていなかったら。今の私は無かった。たぶん紫信さんのことも受け入れられなかった」
「……そんな大袈裟な」
「それくらい私には大きかったんです。あの時の真城さんの言葉が」
「……そうなの?」
「そうなんです!」
そこまで彼女の人生に影響を与えていたと思わなかった。
でも、そうか。
僕の人生もお姉さん……紅林さんに出会ったことで変わった。
明るい未来を信じることが出来た。
彩ちゃんは僕の手を握ったまま頭を下げる。
「あの時はありがとうございました。おかげさまで元気に生きてます」
「どういたしまして」
「ラブホには行きませんけど。今度一緒にお茶でもどうですか?」
「……遠慮する。鐡さんに殺されたくないし」
「紫信さんそこまで心が狭くないと思いますよ」
「狭いよ!彩ちゃんのことに関しては猫の額くらいしか無いよ!」
「そうだな」
背後の高い位置から低い声。
振り返るまでもなく、それが鐡さんだと分かった。
「俺の彩をラブホテルに誘うとはいい度胸だ」
「……違うって鐡さん!そうじゃなくて!」
「紫信さん誤解です!真城さん私のこと女として見てませんから!」
彩ちゃんの言葉に僕は何度も頷く。
「……それはそれで腹が立つ」
「何で!?」
「こんなに可愛い彩が女として見られないのはおかしい」
「紫信さん……」
何、この雰囲気。
新婚さんいらっしゃい?
「……あ、僕お邪魔みたいなんで帰りますね」
「真城」
呼び止められて怯える僕に、鐡さんは珍しく微笑んだ。
「よく分からないが。ありがとうな」
別に御礼を言って欲しくていろいろしている訳じゃないけど。
感謝されるのは悪いことじゃない。
「どういたしまして」
僕も笑って文具店を出た。
狭い階段を下って一階のカフェから外に出る。
高い空。
乾いた風が吹き抜けた。
あの頃の自分に伝えたい。
大丈夫。
僕はきちんと返せているよ、と。
【 完 】
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