灯台下クラシ

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 我が子の夏休みが終わり新学期が始まる9月。平日の昼に子供が家に居ない、いつも通りの毎日が戻ってきた。 「ふーちゃん、いってらっしゃい」  忙しい平日の朝。旦那の正樹のお弁当を作る間に家を発つ我が子を見送る。地元の公立学校に通う中学二年生の息子の楓樹(ふうじゅ)とは、楓樹が中学生になった頃から段々と会話が減り、今はもう挨拶もままならなかった。「いってきます」と挨拶が返ってこなくなってから既に一年は経ってしまったかもしれない。しかし反抗期もいずれ終わりを迎える時が来るだろうと、子どもが成長する過程のことなのだから仕方がないのだと前向きな言葉を自分に言い聞かせていた。 「……いってらっしゃい」 「ん」  育児の一切を私に押し付け、全てこの適当な返事で済ます旦那に弁当を作ってやる必要があるのか最近は疑問を持ち始めていた。いや、たぶん思い出せないくらい前から正樹に何かしてあげることに疑問を持つことは色々とあったけれど、思わないようにしていただけなのかもしれない。 「はぁーあ!!」  息子も旦那も居ない一人きりのリビングルームで大げさなくらい大きなため息を吐いた。さて、これから私は引き続き家事と自身の仕事をしないといけない。正樹のように会社に勤めている訳でも、パートに出ている訳でもない。ただ私にはとある稼ぎがあった。今はまだ公立の中学に通わせているけれど、楓樹が私立へ受験したいと言えば応えてあげたいと思って、全てを貯金に回している稼ぎがあるのだ。 ふーまま『ふーちゃんは今日も無言で学校へ行ってしまいました』 てへぺろ『分かります!ウチもそうです~辛いですよね……』 こーぎぃ『もう数年経てばきっと反抗期も抜けますよ。私の娘はそうでした!』  それは楓樹が生まれた時に始めたSNSの育児アカウントによる稼ぎだった。『ふーまま』と名乗り、嬉しかったことや悲しかったこと、悩みや葛藤などをSNSで吐露していた。今日もまたいつもの通り楓樹との関係性を綴る。同じように悩んでいるのであろうママさんたちからの返信が届くと、同じ悩みを持つ親が私だけではないと可視化することが出来て心強かった。かつてこの育児アカウントでバズった経験のある私はそれなりに影響力のあるアカウントとして広告収入が入るようになり、それを貯金へと回している。こうして悩みを共有して不安は減り、代わりに収入を得るなんて、私にとって最高の稼ぎ方だと当初は思っていた。 スパ@FX運用アカ『育て方が悪いだけじゃないですか?』  誰にでも見られるが故に意地悪な返信が届くこともよくある。ただし見ず知らずの人たちが熱心に私のSNSの投稿を閲覧してくれるのも広告収入に繋がるから、気にしないようにすれば意地悪な返信もお金にしか見えなくなるものだ。頭の中で「チャリーン」とお金が落ちる音を鳴らして意地悪な返信をありがたく読み流していた。 「はぁ……」  だからこのため息は意地悪な返信によるものではなかった。昔は楓樹の写真を載せることが出来たけれど、今は反抗期のために写真など一枚も快く撮らせてもらえることがなくなってしまった。それに挨拶すらままならない状況で、SNSに投稿出来るようなエピソードも少ない。毎日反抗期で悲しいという代わり映えのない投稿に偏り、閲覧数が伸び悩んでいることが悩みであった。 ふーまま『旦那の挨拶も適当で……』  途中まで文章を入力して取り消した。確かに正樹への不満はある。でもSNSには上げないようにしていた。これは育児アカウントで、あくまで主役は楓樹だと思っていた。このSNSの世界だけでも私と楓樹の関係に正樹を割り込ませたくないと思っていた。 「あぁ、また来てる」  そして最近私を困らせていたのは、ただの悪口ではなく妙に匂わせた返信だった。 うまオムライス『来月は文化祭ですね!リンゴ飴で歯を欠けないといいね!』  一見すると特に害のある文章では無いけれど、妙に引っかかるところがあった。私はこのアカウントで文化祭に言及などしていない。でもこの「うまオムライス」というアカウントが言う通り、楓樹が通う学校で文化祭が来月の10月に開かれるのだ。そして楓樹は昔、リンゴ飴で歯を欠けたことがあった。それは確かに昔このアカウントで投稿した内容だけれど……それにオムライスは楓樹の好物だ。意図的なのか分からないアカウント名で気味が悪い。  暇であれば害のない返信に反応をするけれど、これには対応に困っていた。偶然なのかもしれない。秋に文化祭をする学校なんてよくあることだ。オムライスが好物なことも投稿した記憶がある。勝手に私が不気味に思っているだけで、今のところ何か害があるわけでもないし……わざわざSNSの機能で関わらないようにブロックすることは可能だけれど、これくらいでブロックして余計に執着とかされたら嫌だしなぁ……。 うまオムライス『ふーちゃんはきっと学校で人気者ですね!』  楓樹が反抗期だということしか発信していないというのに。私は楓樹の学校での様子なんて何も知らないから、中学生になってからはそんなこと投稿したことすらない。何を適当なことを言っているのだろうか。当てずっぽうで文化祭のことを言い、ふーちゃんと親し気に呼んでくるこのアカウントに対する不快感は、日に日に増すばかりだった。 コウキ『今日も一日頑張るぞ!』  不幸だと思ってはいないけれど幸せだとも思えていない毎日の中で、癒しになっているアカウントがあった。私と同じく中学生の子供がいるらしい父親であるコウキさんのアカウントだ。コウキさんは思春期の娘さんとの距離感に悩んでいるらしい。同じように子供との関係性で悩んでいることから交流するようになっていた。コウキさんのSNSには前向きな言葉ばかりが並んでおり、それだけで私も励まされている気持ちになっていた。 コウキ『ふーままさんも元気出してくださいね』  自宅の庭なのだろうか、素敵なお花の写真を添えて、私の息子に対する後ろ向きな投稿にもこうして優しい言葉をかけてくれる。私にもこんな旦那さんが傍にいてくれたらいいのに。姿も知らないコウキさんの奥さんに軽く嫉妬をしていた。
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