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第三話
この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第三話
「ぃやさあーしぃー♪」
銭湯に悠希さんの唄声が響く。河童浴場の男湯と女湯を隔てる壁の上、唯一、性別の境界が無い隙間から馬鹿でかい唄声が聞こえてくる。もう誰も注意しないんだな、と、周りのおじいさんズを見渡した。これが彼女の普通なんだろう。うん、とてもよく分かる。いつも、騒がしくて、全然、人の話を聞かないもんな。湯船に浸かり目を閉じて、体の外から入ってくる熱を感じていると、ふ……っと、小さな風が吹いた気がした。すると、いつの間にか、或いは、ぼくが気付かず、隣に浸かったのか、首まで浸かる男性の口が動いていた。
確かに口が動いているのだ。
だけど、何も聞こえない。
独り言だろうか。
百数えるまで風呂桶に使っている文化圏の方だろうか。
しかし、風速一メートルにも満たない風のような彼の声は、ただ、本当に声が小さすぎて聞こえないだけだった。彼が、こちらを見て微笑んでいるのだから、何か返事を期待されている。鼓膜に残る風速一メートル以下の微かな振動を頼りに、全力で脳を回転させ、この人の声っぽい振動を解析した。
元音声:
「悠(解析不能)は相か(桶をタイルに置く“かこーん”という音)ずだ。し(おじいちゃんがお湯を流す音)呂はいいね。こみ(誰かが鼻をすする音)君」
こみちシステムの解析結果:
『悠希は相変わらずだ。し(解読不能)風呂はいいね。湖径君』
「そうなんですねっ?ぼく、まだ引っ越してきたばかりで!あ。お風呂は心も洗われますネっ?」
彼が笑顔で頷く。よし、解読に成功し、返事を間違えずに出来たらしい。時が時なら、ぼくはエニグマを解読出来る頭脳を持っているんじゃないのか。次の会話に備え距離を物理的に詰めていたのだが、それが不快だったのか、彼は立ち上がり、ぼくを見下ろすと、下半身に“謎の光”が差し込み、意味ありげな笑顔で「(かぽーん)事は悠(ザァアアアア……カコン)たよ。ぼくは(ヴェックシ!チクショー!)だ。よろし(ヴァッハン!ゴホッゴホッ!)君」と、おじいちゃんたちの立てる音とくしゃみ、咳込みに抵抗できない風のような小さな声を吹かせたまま、浴場から出て行ってしまった。
「悠希っ!それはキャッチャーミットが無いと成立しないボケなんよ!!」
「フゥ〜♪ツッコミがキレッキレ〜♪」
女湯から反響する悠希さんと番台さんの声。キャッチャーミットが無いと成立しないボケと声が微かな風の男性が何を言っていたのか、気になって仕方がない。
「…………答えは風の中で……っていう歌があったな」
あの名曲に唄われた風の中にある答えを知ったとき、山椒魚町四丁目河童三番地辺りの混雑した出来事の真理にたどり着くのかもしれない。
悠希さんに晩ご飯を食いに来い、と呼ばれていたから向かうと、葵さんと家の前で鉢合わせる。葵さんが「こんばんは。まだ気温が下がりませんね」と言い軽く頭を下げる。だから、ぼくも会釈をして「そうですね。でも、この町は風の通りがいいから」と互いに言葉をソナーとして、距離感を測る。この町に越してきて四日目の夜。これが一般的な人間の距離の測り方だ。この町にいる人の対人関係の距離感がおかしいだけで、葵さんとする会話が普通なのだ。
一般的、普通……………って、何だろう?
「葵さんは絵を描いていらっしゃるんですね」
「まあ、はい。売れていませんが」
「本の知識ですが、大変だと存じてます」
「そうですね。本当に過酷ですよ」
葵さんは大人というか、話し方もしっかりと聞き取りやすい高さで、聞き取りやすい速度でやさしく話してくれる。河童三番地の長屋にも常識人が住んでいるという安心感を与えてくれる。でも、待て。やっぱり普通とか常識人って何だろう。
遺品の本に隠した官能小説、退勤時間を三十分早めてくれたのに、いつもの退勤時間で記録してくれた人妻、駅のホームに出来た列に割り込んでくるおっさん、そんな、おっさんには正拳突きで制裁しているという後輩…………、この人達は常識人だろうか。普通や常識というのものは、歴史が長く、浸透しているマナーやルール、社会で占める割合が多い事だ。それから外れるような人は普通じゃない………じゃあ、ぼくも普通ではないはずじゃないか。そういう人達がたどり着いた場所がここだとしたら、ぼくが毛嫌いし始めたら、河童三番地の人達の居場所はどこにあるんだろう。ぼくの居場所はどこにあるんだろう。
「どうかされした?」
「あー、いえ。少し思い出した事があって」
そうなんですね、と言う葵さんが、何だか、ぼくから離れていこうとしている気がした。だから、再び、距離を測る為、話を繋ごうと言葉のソナーで、引っ越し初日にあった悠希さんにやられたことを面白おかしく話す。
「悠希さんらしい」
「でも、ぼくは酷く疲れていたんですよ」
それは昼寝をしていた時に、激しく玄関戸を叩かれた事だ。葵さんが静かに笑い「同じことを仕返しにやってみてはどうでしょう?」と、言葉のソナーが近づいてきてくれたと教えてくれた。ぼくは「それはいいかも」と微笑み。玄関戸を強く叩いてみる。
がしゃ!がしゃがしゃ!がしゃがしゃ!
ばんっ!と台所の窓が開き、ぼくらを確認すると「っるせえーよ!!湖径ぃ《こみち》っ!!!」と、初日にぼくが言いたかった感情をぶつけられる。一瞬、驚き、思考が停止。それから「悠希さんだって、昨日激しく叩い」と反抗しきる前に「チャイムがあるやろがい!警察呼ぶぞ!」と正論が返ってくる。
「えぇ〜……」
まさかのド正論に、我はおもう。分かっているなら、何故、ぼくにはしなかったんだろうか。もし、この思考を悠希さんと共有できたなら、一度にふたりの存在意義と関係性への哲学的理解が進むだろう。
汚れたスニーカーを脱ぎ「お、お邪魔します」と恐る恐る家へと上がる。台所にいた悠希さんと目が合った瞬間「ったく、小童は常識も知らねえのかよ」と小さく舌打ちをされた。悠希さんの常識って、どうなっているんだろう。狭い廊下にいた葵さんが、台所を覗き「お料理、手伝いますよ」と、ととっと台所の古い床を鳴ったかか気付いた。
「えッッ!?悠希さんが作った料理なんて食べれるんで」
またも言い切る前に悠希さんのドロップキックで、廊下の壁に顔からめり込んでいた。
目の前に並ぶ、魚の煮付けや小松菜のおひたしは、スーパーの惣菜やインスタント食品の類ではない。本物の手料理である。丸い食卓の円に焦点が合わなくなってきて、嫌な汗が滲み出てくる。あの悠希さんが作った料理だぞ、無事に帰れるのか……と、生存本能が嫌な汗と悪寒、こころが拒否反応をしている。
「そろそろ、おねいちゃんも帰ってくるはずだし、冷めるのも嫌だから先に食べようかあ」
「おねいちゃ……っ?えっ?」
「ただいま〜」
「うわ〜い♪帰ってきたぞ〜♪」
ぎっぎっぎっ、と古い階段を上ってきた“お姉ちゃん”は河童浴場の番台さんだった。
「おねぃちゃん、遅いよ〜う(きゅるりん☆)」
「いつも通りでしょ?」
「いつもより五分も遅いよーぅ。悠希、心配するじゃん〜」
「五分くらいでしょ。まったく、悠希はおかしな子ね」
まさかの繋がりと悠希さんの“甘々なお姉ちゃんっ子”に、自分の意思で体が動かなくなってしまったのだが、隣に座っていた葵さんが「お邪魔しています」と挨拶をしたので、辛うじて動きを真似て動かした。しかし、脳の生命維持に必要な部分以外、全てが“悠希さんと番台さんは姉妹”で占められ、まさかの甘々お姉ちゃんっ子ぶりにドン引きしている。
「湖径くん、いつも悠希がお世話になっているみたいで」
「あ…………い…や?こちらこそ、お世」
「こいつ世間知らずだからさ〜あぁ〜。いつも悠希が注意してるんだよ〜ぅ」
は、ははっ、はははは、乾いた笑い声しか出ず、いくら本を読んで、先人の知恵を学び、哲学を専攻しても世界には分からないことが多いと肌で感じた。
「うっま!すごいじゃないで」
「ああやって、いつも湖径が失礼な事を言ぅーうーのーお、おねいちゃんー。叱ってあげてよーおぅ」
普段なら“失礼なのはアンタだろ”と思っていただろうが、脳内で分泌される美味しいものを食べた時の幸せ物質が、“嘘、だろ。あの悠希さんだぞ。どうして、こんなに美味い料理が作れるんだ”と別の思考にアクセスする。
「まあ、悠希さんは人妻ですし、お料理くらいは」
「やーん、葵さん!人妻って、えっち!」
「みなさん、ちょっと待って下さ」
「どした?湖径?」
口の中といい、番台さんと姉妹という事実といい、悠希さんが既婚者である旨といい、今の状況は情報量が多過ぎて脳が辛い。
お皿にはラップがかけられ、ぼくは窓際で水を含ませたタオルを目元に乗せ、寝かされていた。銭湯ならまだしも情報量の多さに脳がオーバーヒートし、のぼせた、らしい。みんなが畳の上をやさしく踏み、気を使ってくれている音がする。番台さんこと、亜希さんと悠希さんが、一緒に暮らしているのは悠希さんの旦那さんが長期出張で海外にいるからとの事だ。亜希さん曰く「悠希の見た目で、いつも一人というのは危なかっしい」という理由。世の中にいるとされる“大きなお友達”と、お友達になりそうで危険だという心配からだった。それはぼくも容易に想像が出来た。悠希さんなら「おっ、お菓子をあげるよ!山っ、山のようなお菓子だよっ!フヒっ!」と声をかけられ「マジで!?フゥーっ!あっがるぅーっ!!」と、小躍りしながら着いて行きかねない。
鼻先に触れる夜風が変わった。少し冷たく、夜中や明日という日になる前の空気だ。やさしく畳を踏む音が近付き、さっと衣擦れが聞こえたから少しだけタオルを目元からずらした。
「気分は良くなったかい?」
「はい。少しは……だけど驚きま」
「何?何が驚いたのさ?」
「いや…………」
言葉に詰まる。ぼくが口にしようとしたのは、悠希さんへ二度目の失礼になる。ずっと“人とは何か”を勉強し、毎日考えていても、何も伴わなければ、ただの馬鹿だ。
「ひょっとして、湖径さあ……」
「………………」
「私の事“イケるかもっ”とか思ってたあ?お近付きになって、彼女ゲットぉ!みたいな!」
ああ、目の前で悪魔が生贄で遊んで笑っている。拝啓、トーマス・ジェファーソン様。ぼくは今、幾つ数を数えれば、この悪しき感情を抑えられますか?えっ、不可説不可説転ってなんですか?
「おやすみなさい。料理……すごい美味しかっ」
「おう!食べに来てくれて、ありがとな」
「おやすみなさい、湖径くん」
だがっがらががらがたん、と、不器用にレールの上を走る玄関戸を閉め、細い路地、長屋に切り取られた夜空を見ようと顔を上げた。不器用に張られた電線があり、その向こうにようやく月が見える。世の中は分からない事だらけだ。第三の選択をし、自分で生きていくのだと決めなければ、今頃、慣れない畑仕事の疲れと筋肉痛で布団と友達になり、何も知る事なく夢の中で放送される大学生活や就職活動を忙しくする自分の姿に、泣いていたかもしれない。
ふっと路地を抜ける冷たい風と風上で、誰かがぼそぼそと話しているのが聞こえてきた。そういえば、この路地の奥ってどうなっているんだろうか。ぼろぼろのスニーカーを歩かせると、話す声が途切れる。
「よお、小僧」
闇の中から掛けられた声に全身が反応する。
「おわ!…………ぎょ、魚人のおっちゃん!」
「騒ぐな。皆に迷惑がかかる」
ドスの効いた低く話す声。煙草の先を蛍みたいに光らせながら、こっちを見て………いや、魚眼だからよく分からないけれど。おっちゃんは最後のひと吸いをすると、深く「ふぅうううっ」と煙を吐いた。鱗と鱗の間……だと思うポッケから携帯灰皿を取り出し、橙色の蛍を消す。おっちゃんは煙草をポイ捨てしない良識ある大人のようだ。
「小僧……今、俺が誰かと話していたのか……見たり、聞いたりしたか?」
「んあー…………知らないっすね。ていうか、声なんて聞いてませんよ」
ドスの効いた低い声が「そうだ。それでいい。俺は誰とも話していなかった」と言って、小さく“カチャッ”という意味ありげな音がした。
いつもの長椅子に二人して座り、長屋の影から現れた月を見ていた。魚人のおっちゃんが「この世界は分からない事だらけだ。そして、分からなくてもいい事だらけだ」と何か含みを持たせる。鱗のポッケから煙草の箱を取り出しマッチで火を点け、ふぅうう、と、煙を夜空に置く。
「小僧……今、知りたい事はなんだ?」
これは………映画でよく観るやつかもしれない。答え方によって、人生が変わってしまう系の質問だ。今、ここでスタッフロールが流れるか、シーンが明日に変わるかの台詞を言うところだ、絶対。絶対、そう。そんな馬鹿な事を考えているくせに、体は正直で嫌な汗を全身でだらだらとかく。しかし、やっぱり頭は生命維持機能を除き、お馬鹿さん状態なので、口から出た言葉が馬鹿だった。
「この路地の奥って…………どうなってるんですか?」
「小さなお宮さんがある。そこで行き止まり」
何故、さっきの件を蒸し返すような言葉を選んだのか。あー、これって、あれだ。映画でいう、しくじった方の答えだ。お宮さんがあって行き止まり、ぼくの人生もここで行き止まり、そういう意味でしょ。そろそろ、ぼくとおっちゃんの座っている姿が、クレーン撮影かドローン撮影で遠のくシーンになり、スタッフロールが流れ始めるんでるんでしょ。おっちゃんが持っている“カチャッ”って音のするモノが“チャカ”ってなる出番なんでしょ。
あー、分かった!エンディングソングはボブ・ディランの『風に吹かれて』だ!ここで伏線回収するタイプの脚本だ!
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この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第三話、おわる
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