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第四話
この町は、きょうもあなたのおかげで廻っている。
第四話
「うぁあああああああああああッッ!!!」
荒れた息と焼けたように渇く喉。頭から脚の先まで、ぐっしょりと、汗で濡れていた。顔にしがみつく不快な汗を拭い、体に“穴”が空いていないか、ぱたぱたと手で確認していく。はぁああああ、と、深く息を吐いて、昨夜の選択が人生のラストシーンでは無かった事に安堵した。それでも、頭の中で再生されるクレーン撮影でチルト、トラックバックを組み合わせた画角に合わせ、流れ始める悲しめな音楽とスタッフロールや、熱い展開にページをめくる手が止まらなかったのに、途端に『おれたちの戦いは続く!( ──── ヲトブ先生の次回作にご期待ください!)』と一枚絵で締め括られてきたマンガも浮かび上がっては、消える。
「……………とりあえず、感謝はしなきゃ」
目を閉じ、無事に今日を迎えられた事に感謝した。誰に感謝をしたのかは言わずもがな、ネタ切れせずにペンも置かなかった作者にだ。
窓からひんやりとした夏の空気が入ってきて、お向かいさんの屋根瓦が朝日で輝く。どこからか、朝食の香りと賑やかなテレビ番組の音がし、がらっがららっがたんっ、と、どこかで鳴る不器用な玄関戸。
「ぃやさーしーぃ♪」
今朝も悠希さんの馬鹿でかい唄声が聞こえてきた。家の前の植物たちに水をやり始めたのだろう。ぼくも水を飲もうと、ぎしぎしと鳴る細く狭い急角度の階段を降りていく。昨夜、魚人のおっちゃんとした会話は夢だったのか、おっちゃ「マサァあああああああああ!!!起きろぉおおおお!!!」と、考え事に占めた頭に、お隣さんの大声が響いて驚き、足を踏み外しそ「うるせえぇえええええ!!是智ぉぉおおおおおおお!!!!もう起きとるわぁあああ!!」た後の返事に、また驚き、結局、階段を踏み外してしまった。どどん!と、三、四段滑り落ち、お尻を打って床で苦悶していると、ばんっ!と玄関が開き「湖径ぃいいっ!!大丈夫かぁあっ!!?」と、ジョウロを持った悠希さんが飛び込んできた。
「あーあーあー。階段を踏み外したのか?ちょいと邪魔するよ」
言えない、絶対に言えない。魚人のおっちゃんプレゼンツ“どきどき♡メモリアル”の選択シーンで正ルートを選ぶ事は出来たが、受けた恐怖に足許がおぼつかなくなっていたなんて言えない。この人なら“ビビってやがんの、ダッサ”とか言い、尾鰭を付けた上で超小心者として言い回るはずだ。悠希さんが床を鳴らして目の前で屈み、少し不機嫌そうな顔で「大丈夫かあ?頭打ってない?怪我は?」と顔を覗き込んできた。
“真夏の団地妻、昼下がりのポールダンス”
“やーん、葵さん!人妻って、えっち”
「ん?どした?黙って。頭打って記憶でも喪失したか?え、ナニソレ、おもしれーっ」
どうして、昨日の朝と違って、悠希さんが大人に見えるんだろう。髪が真っ赤で、身長が河童浴場の暖簾にすら届かなくて、いつも馬鹿でかい声で唄い、ぼくの話を最後まで聞かずに話し始める。
「あ……いえ。今日、大学……何限からだっ」
「お前、まじで頭とか打ってないよな?」
強烈に痛覚が反応している第一位はお尻だが、どこかに第二位がある。
「どこも怪我してねえなら、立てよ。ほら」
差し伸べられた手。この人の手って、こんなに小さいんだな。この小さな手から、あんな美味しい料理が作られたのか。
「ぼくは……心を打ったのかもしれ」
「何それえ?今時のナンパなダッセー邦楽の歌詞?」
周りの人、ぼく以外の人達が、皆、大人だ。
午前の講義が終わり、あからさまに眠そうな筆記用具をしまう音が講義室に響く。ぼくの筆記用具は別の怠さだが、他人からすれば大して変わりはないのだろう。夏休みに近い廊下に生徒はあまりおらず、人目につきにくい場所では前期の講義内容ノートの密売が行われ、そのレートや売上に対して売人同士で抗争があり、夜な夜なロウソクの灯りの下で、“シノギ”について会合が開かれているという噂だ。それ以外の声といえば、“休み中、どこかしらなにかしら遊びに行こうか”とか“気が付いたんだけどぉウェーイって、まじウェーイじゃねっ?えっ、マジでアガるーぅ!!”やら“親が帰省するから、家に一人……なんだよねっ?”という浮かれた声ばかり。休む事も重要、遊ぶ事も重要、うぇーいも輩の殿堂か大音量鼓膜破壊音頭が流れる場所では重要、数日に渡り、朝から翌朝まで“にゃんにゃん”するのも大変重要なのだろう。しかし、学生の本分は勉学ではないのか。
た、た、た、た、た、た、
廊下を歩いていると、背後から軽く跳ねてくるスニーカーの主を知っている。だから“先輩”と呼ばれる前に立ち止まり振り返った。ぼくにぶつかる軽い衝撃と、宙を舞う本が数冊。石井さんが頭を打ちそうな勢いで吹っ飛んだから、危ないと思い手を出した。
「石井さんさっ、背後から襲撃するにもやり方があるでしょっ?」
「先輩がっ、急に振り返るからいけないんですよっ!」
「……にしてもですねっ」
「何っ?」
「今の状態は、流石に恥ずかしいかと……」
石井さんが頭を打たないように、背中に手を回した。それだけでは支える自信がなかったので手も引いた。この状態を客観的に見れば、サルサのディップ状態である。大きく仰け反る女性を男性が支える情熱的なアレだ。少ないとはいえ、生徒の衆人環視に恥ずかシンクロ率が互いに上がり、ぼぼぼぼぼ、と鳴る。恥ずかシンクロ率が上昇し切り、真っ赤になった石井弐号機はあろう事か、式波・湖径・ラングレーであるぼくに正拳突きを入れたのだ。
「カハッ!!!!!!!」
結局、倒れる石井さんとお腹を押さえて屈み込むぼくの姿は、他人からみれば悪漢を撃退した図である。
蝉の鳴く中庭のベンチで、お腹を抱え三十分以上、全くもって酷く重い不快が収まらない。なんなら、少し吐くし、えずくし。
「ほっ、ほっ、本っ当に!大丈夫ですかっ!先輩っ!」
「あーガハッ、いやゴホッ、大じゴホッゴホッぇぶ」
みぞおちの苦しみと止まらない冷や汗もだが、学内に事実無根な噂が流れるのではという恐怖に違う汗も止まらない。白昼堂々と大学の廊下にて、石井さんを襲ったなんて噂が立てば、社会的抹殺まっしぐらだ。
「うっゴフ、後ろからっ、オェ、どうゴホゴホて、近付いカハッんだっ?」
「いや、まあ…………先輩に“だーれだ?”をしてみたくて、ですねっっ」
「は?」
「そんな真顔でドン引きされると、逆にドン引きします」
どうして、付き合ってもないぼくに、そんな寒い行為を実行しようと考えたのだろう。今時、そのいちゃいちゃ表現は漫画の中であっても白ける。個人的には、とても好きな展開だと思っているが。ああ、やっぱり、この子は……、
「石井さん、頭打っ」
「…てません!先輩のばかあ!」
しかし、何か身体がおかしい。本日の痛みランキング第一位を記録したお尻のポイントを越え、みぞおちの痛みが第一位にまでジャンプアップしたのは兎も角、第二位に転落したお尻の痛みに迫るやつがいる。猛然と第二位に迫り、第一位をも脅かす心の締め付けは、何だ?
アルバイト先の古書店が定休日で労働も休み。週に一度の、この時間を生活関係に充てる。まず、家に帰り洗濯機を回し、その間に安売りスーパーへ買い出しに行く。帰ってくる頃には洗濯が終わっているから洗濯物を干して、後は冷房の効いた図書館で閉館まで勉強だ。家に帰る頃には夕食前で、簡単に作れるものを作り、食す……という算段。しかし、このみぞおちの重い不快と「家まで送ります!先輩に何かあっては困ります!」と、もう“何かあった後”の原因を作り、着いてくる石井さんの行動に理解が追いつかないでいる。
梅雨が明け、茹だる暑さが続く夏に始まった第三の選択戦線。毎日、毎晩、ふと気を緩めると考えてしまう。本当にこれで良かったのかと。その度に正体の知れない何かに襲われそうだから、体育座りをして、部屋の角や自動販売機とゴミ箱のあいだ、トイレの個室でそいつが去るのを待つ。大学に多数存在する馬鹿みたいに遊びまくる同世代と“読書部”にこだわる後輩ちゃんは、今のままの生活を送り続けていて不安にならないのか。山椒魚町四丁目河童三番地にまで帰れば、いつも馬鹿でかい声で唄う悠希さんは人妻であり、鋭いツッコミの持ち主の亜希さんは番台さんをするみんなの人気者で“お姉さん”的存在。絵で身を立てようとしている葵さんの苦労は知らないけれど、ぼくの覚悟や悩みなんて蟻くらいなのだろう。魚人のおっちゃんは人間より人間だと思え、変人ばかりだと思っていた人達は、皆、大人だった。大学と山椒魚町、二つの世界を行き来するぼくには、それぞれの世界の事実が、現実が、たまに、辛い。
ぼくが、これまで抱えてきた事の形や正体は、実は実家に帰って現実の忙しさで麻痺させる事でいなくなるのかもしれない。
「先輩!私を撒こうとしてませんかっ!!」
「どうして、そんな面倒な事を。そんな元気があるならエ〇ァンゲ◯オンみたいな猫背で歩いてないよ」
そんな姿勢で歩かなきゃいけないくらいなら、この後、何かあるかもしれないので送ります!ふんすっ!と、気持ちを新たに石井さんが腕を支えてくれる。石井さん。君は、ぼくに……そんな後遺症じみたものが出る突きを入れたんだね…………。
古いたばこ屋さんと、お地蔵さんの祠の辻で「家はこの先だから、ここで。送ってくれて、ありがとう」と彼女を帰そうとした。すると、まず「あの……帰り道、覚えていない…………です……ぐすっ」というひとつ目の面倒臭いが発生し、続いて「ぃやさーしーいー……♪おっ?おおっ!?小童が女の子を連れ込もうとしているぞぉっ!フゥーッ!ヒューヒュー、ドンドンドンドン!ぱふっ!」という二つ目の面倒が路地の前後で、ぼくを挟む。これでは退路が、無い。まず、湖径軽戦車は“後輩ちゃん用弾頭”を装填、発射後、間髪入れず“赤髪用反論弾頭”を装填し発射。赤髪戦車からの反撃を受ける前に、駅方向へ石井さんを引っ張り突破するという強硬策しか現状を切り抜ける手段はないと判断した。
「まず!道が覚えられないなら!着いてこないで!そして!悠希さん!こいつは、ただのこ」
「湖径ぃ、後ろ。道、開けてあげなよ」
「あっ、すみません!」
「ぃ(自身の歩く音)ぃょ」
ちっ。第三戦力が現れタイミングを失った。音もなく現れたステルス性能を搭載した大きな戦車に載る砲身は豆鉄砲より小さなものだが、それ故に厄介だ。この小さな声、極々普通の生活音にかき消される風のような存在の男性は、昨日、河童浴場で話し声が全く聞き取れなかった人だ。
「こ(遠くを走る車の音)君は大(家の中からしたおじいちゃんのくしゃみ)なんだね。ぃ(猫の鳴き声)」
普段、聞こえないものが、この人と会話をする事によって聞こえる生命の音。この星に生きとし生けるものが、こんなにも生命の音を出しているのだと感動さえする。ワンダー・プラネット、グレート・ネイチャー。
「空ちぃ、もう湖径と会ってたんだねー」
「こ(郵便のスーパーカブの音)、河(配達員さんがポストに手際良く手紙を入れる音)」
「そーなんだっ!じゃあ、紹介不要か!」
悠希さんは風速一メートル以下の風が吹いた声を聞き取れるみたいだ。お願いします、悠希さん。紹介、してください………不要ではなく、大いにしてください。悠希さんの家の玄関が不器用に開き、急ぎ足で亜希さんが「空さん、湖径くん!こんにちは!いってきます!」と通り過ぎようとした。空さんと呼ばれた微かな風が「こ(猫の駆ける足音)っ、食(遠くから聞こえる飛行機の音)ねっ。約(おばあちゃんのくしゃみ)」と発し「ああっ、アレね!空さんの予定に合わせる形で!」と祠の方へ折れ、路地の向こうへ消えていく。もしかして、この微かな風の声が聞き取れないのは、ぼくだけなのか?
「(低空飛行をする飛行機の音)」
いや、今の言葉は飛行機の音に完全にかき消されているので、一語一句分かりません。今回は解析のヒントが何も無い。ネクスト・コ◯ンズ・ヒントもびっくりだ。
「絵深さん、帰ってきたねえ」
再び、振り返り道を開ける。しかし、そこには空さんを凝視する石井さんが立っているのみ。あれ?石井さん?微妙に震えている?
「「あの。っ湖?径失、違礼うでよす。けもど、う小す説ぐ家絵の深ソさラんべっオてト人さがん帰でっすてかる?。」」
石井さんと悠希さん。同時に違う事を話し出し、互いに譲る事なく話し切った。どちらも、どちらかが譲ると思っていたのだろうか。もしかすると、この二人は混ぜるな危険の可能性が高いかもしれない。
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この町は、きょうもあなたのおかげで廻っている。
第四話、おわる
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