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1.
ホワイトデーの朝、街がきれいに雪化粧した。
天が名称のホワイトに合わせた訳ではない。そうと分かっていても、特別に気を利かせてくれたように感じる。ただでさえ滅多に雪が積もらない地域にいて、三月に一面の銀世界を見られるなんて。
だから結構期待してしまった。奇跡も起こるんじゃない?って、気持ちが高ぶる。気温の割に身体は火照っていて。発売されたばかりのデオドラントの封を切り、スプレーしてみた。桜の香りを仄かに纏う。それでも興奮を抑えきれない。高校へと向かう途中、足取りが軽くなるあまり、前のめりに転びそうになったくらい。そうか、桜の香りのせいかもしれない。
もちろん冷静になってみれば、雪は街のみんなに等しく降り注いだ。私だけの奇跡じゃない。それでも望みを託したくなる。
彼、桜井茂は私、田町由香莉の告白にきっと応えてくれる。
信じて、約束していた場所に急ぐ。彼が入り浸っている第二理科準備室へと。
時刻を見ると、まだ五分くらい早い。けれども桜井茂は多分いるだろう。まさかの雪に、寒さで縮こまっているかもしれない。走ろう。校舎の中に入ったから、もう滑る心配はないはず。
上履きにきちんとかかとを入れる手間も惜しんで、私は急ぎに急いだ。短い数段のステップを駆け上がり、一階の廊下を走っていく。誰もいないその空間を突っ切るのは心地よくもあり、若干の不安も感じたり。
教室の札が見えた。第二理科準備室。鍵のことを忘れていたけれども、関係ない。さっき想像したように彼が返事のために来ているんだ。遅れてくるはずない。開いているに違いない。
扉の取っ手に手袋をしたままの指先を掛け、横に引く。するっと開いた。息を整えるのを後回しにし、私は呼び掛けた。
「桜井君」
決して広くない準備室は、ドアを全開にすれば中の七割方は見通せる。
次の瞬間には、私は黙り込み、空唾を飲んでいた。
桜井茂は、床に倒れていた。仰向けのままぴくりともせず、頭から血を流している。改めて返事をもらうのは、もう永遠に無理だとしれた。壁際にある長机の影に若干なっていたけれども、身体全体に生気がないのはすぐに分かった。苦しさ故か歯を食いしばりつつも、無理に開けて必死に呼吸しようとしたかのような、恐ろしくも滑稽さの滲んだ表情が、嫌でも印象に残る。
奇跡は起きなかったが、私はするべきことをしなければならない。叫びたいのを堪え、桜井の身体のそばまで寄る。跪いてから、ポケットをまさぐる。そうしながら脳細胞をフル回転させ、ようく考えた。
結論。第三者が入れぬよう部屋に鍵を掛けてから人を呼びに行く。
* *
「元々今は自習の多い時季だから、あんまり嬉しくないな」
名和翔一は板書された文字を理解してから、ぽつりとこぼした。靴を履き替えたときに移ったのか、袖口の雪を払う。
「もっと嬉しくない事態になってるようだぜ」
珍しく先に来ていた牛尾実彦が、自身の席に座ったまま言う。教室を入ってすぐの最前列が、牛尾の机だ。
「今朝は早かったんだな。合流しないから寝坊したのかと思ったよ」
「俺には関係ないと分かっていても、ホワイトデーだとそわそわしちまって、早く目が覚めたんだよ。学生鞄、忘れるくらいにな」
見ると、牛尾の机にあるフックには、白い買い物袋が掛かっている。「まじで忘れたのかよ」と呆れ口調になる名和。
「まともな授業はないし、これでいいだろって思ったんだ」
「だいたい、バレンタインならまだしも、ホワイトデーにそわそわって何だよ。まあいいや。自習の理由は? 普通に考えれば、嬉しくないってことはないだろうに」
「それがまさに嬉しくない事態に関係している。まだ正式に発表された話じゃなく、噂だけど、桜井が死んだらしい」
急にひそひそ声になる牛尾。名和も声の音量を落とした。
「……死んだ?」
桜井茂、クラスメートの一人。分類するなら、ちょい悪か。男から見れば“やな感じの二枚目タイプ”でよさが分かりづらいが、女子には結構人気がある。
名和も牛尾も特別に親しいとは言えないまでも、普通に会話したり遊んだりはする仲だった。
「ああ。昨日から家に帰ってなかったみたいだ。でも、あそこの両親は共働きで、割と放任主義だったろ」
「そう聞いた。桜井もたまに外泊してたって。もしかして、どこかとんでもなく離れた地方で見付かったとか?」
「真逆だよ。見付かったのはここ。学校の中。まだ分からないけど、恐らく第二理科準備室だな。あいつがよく出入りしていたし、様子を見に行ってみたら、警察が来てテープ貼ってたし」
「警察、来てるんだ?」
学年ごとの教室がある棟と、理科室などの特別教室のある棟は別々で、距離もあるためか、様子はほとんど伝わって来ない。
「学校側、騒ぎになるのをなるべく先送りしたいのかね。捜査員ていうの? 刑事や鑑識の人なんかをこっそり入れたんじゃないか。これは完全に想像だけどな」
校内は携帯端末の類は一切禁止なので、情報漏洩はないはず。校内にくまなくジャミング装置を据え付けている訳でなし、飽くまでも建前としては、だが。
「で、牛尾。嬉しくない事態ってのは何さ?」
「お、そうだった。第一発見者として、田町さんが話を聞かれてる」
「田町さんが。何で?」
クラスメートの顔を思い浮かべ、険しい表情をなす名和。女子の中では最も親しい同級生だ。
「だから、第一発見者」
「じゃなくて、どうして田町さんが第一発見者なんかになるんだ? さっきの話から推測して、見付けたのは今朝早くだろ? 田町さんが早朝、理科準備室に用があるとは考えにくい」
第二理科準備室は、超常現象解明サークルが活動する際に、学校及び生徒会側の厚意により使わせてもらっている場所である。そしてそのサークルの主宰が桜井茂。だが、メンバーに田町由香莉は含まれていない。
「馬鹿、忘れたか。ひと月前のこと」
「……馬鹿と言われるほどのことではないと思うが、忘れていたよ。田町さん、桜井にバレンタインのチョコをやったんだっけ。本気の」
正確には、忘れようとしていたから思い出さなかった。名和は田町とは幼馴染みのご近所同士で、恋愛感情を持ったこともある。高校に入ってからはそうでもなかったのだが、彼女がバレンタインデーにかこつけて、桜井に本気の告白をしたのだと知ったときは、多少動揺した。桜井が同じクラスにいることが、名和にとって今後何かと憂鬱にさせられる種になるのではないかと。
と、その時点で、田町がふられるなんてあり得ない、桜井も即座にOKを出したのだろうと思い込んだ名和だったが、事実は違っていた。後日、田町が語ったところによれば、ひと月後のホワイトデーに正式な返事をするからと言われたそうだ。
これでもまだOKしたも同然に思えた名和だったが、当の田町が言うには、ライバルが二、三人にて、桜井は迷っている節があると睨んでいた。自分が選んでもらえたなら奇跡だとも。
「今日、返事をもらいに行ったってことね。なるほど。……桜井が殺されたんだとしたら、ライバル達の中に犯人がいるって寸法か」
「警察の考えは知らんし、第一、殺されたかどうかもまだ不明。ただ、下手すると、田町さんが疑われるかもしれないぞって話」
「――」
名和は自分の机には向かわず、Uターンして教室を出て行こうとした。その制服のベルトを、牛尾が後ろからぎりぎりのところで掴まえた。
「何をするつもりだ?」
潜めた声で聞かれて、名和は「言うまでもないだろ」と答えるつもりだったが、ベルトから伝わる力の強さに、ふいっと冷静に戻れた。
「……何もできない。少なくとも現時点じゃ、情報が足りないな」
だいたい、彼女はどの部屋で事情を聴取されてるのだろう。校舎内にいるのかどうかさえ、確証はなかった。
「行動するのは、もうちょっとあとでも大丈夫だと思うぜ。いきなり犯人扱いで連れて行かれるようなことでもあれば、大いに慌てるしかないが」
「そうだな」
そういうことにしておこう。でないと神経が保たない。
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