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始まりもしない物語
どこからか鐘の音がきこえて、僕は目を覚ました。
窓の外を見ると鮮やかな夕焼け空だった。
その夕焼け空があまりに鮮やかだったから、今でも記憶に残っている。
「ガタッ」
後ろから物音がした。
時刻は6時を回っている。
今教室に残っているのは、同じように居眠りをしていた間抜けだろうか。
のんきに考えていた僕は、気づかれないようちらっと後ろを覗き込んだ。
その瞬間びくっと体が震えた。
真っ黒な影がいた。
絶対にこの世のものではないそれは、人の形をしていた。
僕は頭がおかしくなったのだろうか。
取り敢えず教室を出ようとするが、思うように体が動かない。
不気味な影はにたりと笑っている。
明確な敵意を感じる。
もつれる足を引っ張って転げそうになりながら教室を出た。
視界の端にはずっと影がいて、半分泣きそうになりながら下駄箱へ向かった。
出入り口に近づくと段々体が軽くなり、気分も落ち着いてきた。
下駄箱で急いで靴を履き替えると、駅に向かって思い切り自転車を走らせる。
もう大丈夫。
そう思った矢先だっただろうか。
唐突に目の前に影が現れて意識を失った。
その後のことはよく覚えていない。
あまりに勢いよく自転車から転げ落ちたのか、全身血まみれで頭を強打していたらしい。
病院に運ばれてまもなく家族が駆けつけてくれた。
大層不安気な顔をして体を心配してくれたが、ずっとあの影のことが気になっていた僕は曖昧で適当な返事しか返せなかった。
その後、命に別状はないということで、家に帰ることが許された。
がたごと揺れる安っぽい自動車で、助手席に乗った僕は薄暗い車内の中、遠くを見つめるように窓の外を見ていた。
窓の外はあまりに真っ暗だから、今にも影が現れてもう一度同じ目に遭うような気がして、不安でならなかった。
運転していた母親に向かって理由は伝えず、とにかく安全運転をするように頼み込んだが、夕飯がまだ出来ていないだの、どうのこうのと言って聞く耳をもってもらえなかった。
「そういえば、こないだの模試はどうだったの?」
「………」
母はいつもこうだ。僕の言うことには何の興味も示さないくせに。 投げやりになった僕は、ため息を飲み込んで寝たふりを決め込んだ。決して寝心地はいいものではなかった。
――車が止まった音がする。
「あれ?もう着いたんだ」
返事が返ってこない。
猛烈な寒気がして体を縮こませる。
隣に何かいる。
必死にドアを開けようとするが開かない。
嗚咽がもれて涙が止まらなくなり、小さな胸から心臓がうるさいほどに響いていた。
觀念した僕は決心して横を振り向く。
「へっ?」
運転席には、無地のニット帽をかぶった赤色の髪の女性がいた。歳は20代半ばに見える。
ひたすら困惑する僕を彼女はきょとんとした瞳で見つめている。
「どうしたの?」
透き通るような真っ白な肌の彼女は、薄く血色のよいピンク色をした唇を開く。その細い喉元から放たれる低く穏やかで優しげな声に初心な僕は一瞬の間に心を奪われた。しかし彼女にいくら見惚れようとも、この状況は全く読み取れない。
「は?」
意味がわからない。何がどうしたの?なんだろう。
「母はどこに行ったんですか?」
「え?家にいるけど…」
驚いた僕が外を見ると、そこはいつもの見慣れた風景だった。強い寒気がしたのは彼女が暖房を切っていたからだろう。依然として頭が回らない僕を、長い睫毛に縁取られた大きな黒色の瞳で覗き込む優しげな雰囲気をもつ彼女があまりに綺麗で、顔が真っ赤になった。
「ごめんね、暖房切っちゃって」
僕の様子をみて彼女が謝る。
厚手のコートを羽織った彼女に対して、僕は防寒性の欠片もない学生服を着ていた。
「いや、それは構いませんけど…」
「あの…どなたなんですか?」
たどたどしく尋ねる僕に、彼女は少し微笑んだ。
「あっごめん言い忘れてた、智子さんの同僚の佐々木玲」
智子は僕の母親だ。それはそうと、なぜ母の同僚のがここにいるのか。いまだ困惑した様子の僕を見て彼女が察したかのように喋りだす。
「会ったことなかったかな、実は最近越してきたんだけどね」
「息子が自転車で大ケガしたって聞いたらさ、何か手伝いましょうかって言ったの」
合点のいった僕は礼を告げると、車から出ていこうとする。丁度家から出てきた母親が駆け寄る。
「もしよかったらご飯多めに作ったんだけど、玲ちゃんも一緒にどう?」
「えっ?ほんとですか!ご一緒させてください」
そして激動の一日、初めて会った見知らぬ女性と食卓を取り囲むことになった。
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