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しばらく走って、情けないことに、私はあっさり捕まった。
「翠香!」
ちょっと怒った声の茉莉香に後ろから腕を引かれて、つんのめるように足が止まる。
「なんで追ってくるのよ!?」
振り向きざまに怒鳴る。夜の大通りに私の声が吸い込まれた。
「追いかけるに決まってるでしょ? キスしてさよならって酷くない?」
「それは……っ、でも、ちゃんと聞いたわ! キスをあげてもいい? ……って!」
「言葉どおりの意味だなんて思わないわよ」
「……ごめん」
ミスリードを誘った自覚はある。苦しい言い訳も出てこない。
「翠香、違う。そうじゃない」
「なにが?」
「キスしたことを怒ってるんじゃないわ。いきなりさよならって酷くない? って言ってるの」
「……怒ってないの?」
「怒ってるわよ。翠香が逃げるから」
「そうじゃなくて……キスしたこと」
終わらせるつもりだったのに、期待が芽吹く。それはきっと、私の視線や声音に透けて茉莉香にも伝わった筈だ。けれど茉莉香は、呆れる素振りも嫌がる素振りも見せなかった。
「……怒ってないわ」
「どうして?」
「だって翠香だもの」
茉莉香が掴んだままの私の手を引く。そのまま長い腕に抱き込まれた。茉莉香の首元に私の鼻先が埋まる。
「茉莉香……?」
「どうしてキスしたの?」
耳のすぐそばで、茉莉香の声がした。それだけで体温が上がって、血液が耳に集まる。
「……好きなの。初めて会った時からずっと。茉莉香とならどこまでも飛べるって思ったわ。ピーターパンとウェンディみたいに。あなたに影を縫い付けてあげるのは私が良かったし、私に妖精の粉を振りかけてくれるのはあなたじゃなきゃ嫌だったわ」
「言ってくれれば良かったのに」
「言えないわ。……言えなかったわ。6歳も年下の女の子に恋をしたなんて」
「どうしてさよならなの?」
女の子にしては低めの茉莉香の声が、私を優しく問い詰める。気づけば私は泣いていた。茉莉香の腕に抱かれて。
「……っ、もう、茉莉香のウェンディでいられないから」
「でも私のウェンディは翠香だけだよ。あの日からずっと」
「違うわ。恋も夢も苦しいの。もう諦めて、大人になってしまいたい」
茉莉香に会わなければ、恋なんて知らずに済んだ。匠海に好きだと言われた時、なんとなく嬉しかった。あの気持ちを恋だと、多分思えた。
茉莉香に会わなければ、夢などとっくに諦めていた。理由はなんだって良かった。大学卒業まで、というタイムリミットは分かりやすくて便利だった。
「嫌だよ翠香、置いていかないで」
「置いていかれるのは私の方よ。あなたは今でもネバーランドに行ける」
夢を追って、夢を叶えて、茉莉香はいつまでもピーターパンでいられる。叶わない夢に取り残されるのは私の方だ。
「ねぇ翠香。私、翠香が好きだよ」
「……ウソよ」
「ウソじゃない」
「なら、親友としての好きでしょう?」
「違うよ。……もちろん、親友としても好きだけど」
私を抱きしめる茉莉香の腕に力がこもる。茉莉香の香水が、私の鼻先をひときわ強くくすぐった。
「私の言うことが信じられない?」
「……信じられないわ」
「ヒドイな」
と言って、茉莉香がクスクス笑う。まるで駄々っ子をあやしているかのような声だ。そしてそうされるのが、私はなぜかひどく心地よかった。甘えているし、甘やかされている。ずっと好きだった、6歳も年下の女の子に。
「ねぇ翠香。それなら一つ、秘密を打ち明けてあげる」
「秘密……?」
「どうして私が毎年、ジャスミンの香りの香水を翠香に贈るのか」
「お互いの名前に香りがつくからでしょ?」
「ぶー、不正解。それなら別に、香りはなんでもいいでしょ? ジャスミンにこだわる必要なんてない」
「……でも、茉莉香がそう言ったのよ? 初めて香水をくれた時に」
「そうだっけ?」
「ひどい、忘れたの?」
小さくもがいて茉莉香の首元に埋めていた顔を少し離し、茉莉香を下から睨む。
「ごめん」
と、茉莉香が笑った。
「私の名前の香りを、あなたに纏っていて欲しかったんだよ。だから茉莉の香水にこだわった。翠香は私のだって、自己主張してたかった」
「……本当に?」
「子供っぽいでしょ?」
茉莉香がまた笑う。とても見慣れたイタズラっぽい笑い方の筈なのに、知らない大人のようにも見えた。さっきからずっと痛いぐらい鳴り続けている心臓が、さらにうるさくなる。
「だから、ね、お願い翠香」
その笑顔を浮かべたまま、茉莉香が言う。私の目をじっと見つめながら。
「私のウェンディでいて。大人になっても、もうネバーランドには行けなくても」
と。私は上手く返事が出来なかった。夢みたいで信じられなくて、声を出したら泣いてしまいそうだった。かわりに小さく頷く。
「……嬉しい」
茉莉香の笑顔がさらに大人っぽくなった。私はそれに見惚れる。そんな私に向かって、茉莉香が囁いた。
「ねぇ翠香。私のウェンディ。……あなたにキスをあげてもいい?」
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