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「映画、面白かったね」
個室の居酒屋で、上機嫌に茉莉香が言った。
「やっぱりあの監督の話好きだな。いつか絶対に私も出てやる」
ほろ酔いで緩んでいた目元に、急に力が宿る。茉莉香がそう言い切るからには、いつか本当にそうなるのだろう。
「茉莉香ならどんな役がいいかな」
そう想像するのは楽しい。茉莉香は今でも私のピーターパンだ。ウェンディである私には想像もつかないことをやってのける。去年、まだ21歳の若さで、茉莉香はオーディションを勝ち抜いて帝国劇場の舞台で主役を演じたのだ。茉莉香に贈られたチケットで、私は初日と千秋楽を観に行った。客席から観る茉莉香の演技は素晴らしかった。茉莉香はいつも私を夢中にさせてくれる。自分が板の上に立てない歯痒さすら忘れて、私は客電が落ちて薄闇に沈んだ客席で、茉莉香の演技に釘付けになった。
「どんな役でも似合うだろうな。茉莉香はどんな役がやりたい?」
茉莉香は格好いい女性の役か、中性的な男の子の役が多い。それでも、そういうイメージ以外の役にも挑戦したがっているのを私は知っていた。そして私自身も、色んな役に挑戦する茉莉香を観たい。
「翠香は? 好きな監督とか脚本家とかいるでしょ? 誰と仕事したい? どんな役がやりたい?」
涼しげな瞳の中に星のきらめきを浮かべて茉莉香が聞いてくる。星の海を飛ぶピーターパンの瞳を、茉莉香は今でも持っている。
「私は……」
答えようとして言葉に詰まる。なんの気ない茉莉香の言葉で、夢を思い描けなくなっている自分と不意打ちで向き合わされてしまった。地下鉄の窓に写る自分の顔は、自分で思い描くより酷く疲れて見えることがある。その時の感覚とよく似ていた。
(お仕事、貰えるだけでありがたいもの……とか?)
考えて出てきた返答はそれだった。実際、仕事を選り好みできる立場ではない。茉莉香とは違うのだ。
(ああでもダメだ)
そんな消極的な答え、茉莉香のウェンディなら言わない。
「監督じゃないんだけど……桂木先生かな」
「桂木先生?」
「知らないかな? 小説家の先生なんだけど……日常を優しく切り取ったようでいて、人間の弱さとか脆さとかをハッとするようなエピソードで描く先生なんだよね。その人の話が実写化されるなら演じてみたいな」
「へぇ、いいね。翠香に合いそう」
まあ、そのオーディションには最終選考で落ちたわけだけれど……という、自分の傷口に塩を塗り込むような自虐は言わずに飲み込む。
茉莉香は機嫌良さそうに、ハイボールのジョッキを呷った。飲み干してテーブルに戻す。溶け残った氷がかすかに音を立てた。
「そう言えば、この間、晴斗に合ったよ」
「はると……?」
機嫌の良い顔のまま、茉莉香が口にした名前が誰のことなのか、すぐには分からなかった。一拍置いて、懐かしい顔が脳裏に浮かぶ。
「……あっ、もしかしてジョン!?」
「そう」
「えー、懐かしい。元気だった? どこで会ったの?」
ジョン役はダブルキャストだった。明るく元気で可愛らしい晴斗と、大人しいけれどとても歌の上手い侑李。
「仕事でたまたまね。私が相変わらず翠香と定期的に会ってるって言ったら、今度四人で飲もうって。晴斗と侑李もちょくちょく会ってるんだって」
「えっ、でも、お酒はダメでしょ」
子どもをお酒の場に連れてはいけない。咄嗟に出た私の言葉に、茉莉香がニヤリとイタズラっぽい笑みを浮かべた。それでハッと気づく。
「もしかして二人とももう二十歳なの……?」
「晴斗はね。侑李も年が明けて誕生日が来たら二十歳だって。だから侑李の誕生日過ぎたら四人で飲めるよ」
「ウソでしょ……」
ジョン役を演っていたとき、二人とも中学二年生だった。私の中で、可愛い弟たちはその時の少年姿のままで止まっていて、もうお酒を飲める年齢だということに愕然とする。それだけの年月が経ったのだ。私がウェンディ以外の何ものにもなれないまま。
それでいて私はもう、ウェンディにもなれない。……それだけの年月が経ったから。
「驚いたでしょ?」
言葉なく固まった私に、茉莉香がイタズラっぽい笑みを深くする。
「ええ……そうね……」
なんとかそう返す。だけどそれ以上はムリだった。茉莉香の前でそう何度もウソはつけない。
「……翠香?」
不審がるように茉莉香が私の名前を呼ぶ。
「……私もね」
と、気づけば私は切り出していた。胸のつかえを吐き出すように。
「この間久しぶりに事務所で……匠海に会ったの」
「たくみ……って、翠香の元カレの?」
そう言った茉莉香の顔は不愉快そうに歪んでいた。茉莉香はなぜか妙に匠海を嫌っているのだ。直接会ったことはないはずなのに。
「元カレって言っても、付き合ってたのは3ヶ月もなかったよ?」
「すぐ振ったんだっけ?」
「すぐ振られたのよ」
他に好きな人がいると見抜かれてしまったのだ。尋ねた時に隠そうとも誤魔化そうともしなかったから余計に傷ついた……と、後になって言われた。
「私のウェンディを振るなんて」
茉莉香が憮然とした顔で言う。私が振られたのはあなたのせいよ? と打ち明けたら、茉莉香はどんな顔をするのだろうか。想像して小さく笑ってしまう。
「……匠海、事務所やめるんだって。地元に帰るって言ってた」
「一緒に来ないか、とか言われたの?」
「……よく分かったわね」
言い当てられて、思わず目を瞬いてしまう。
「ダメよ! 絶対にダメ!!」
「行かないわよ。それに匠海だって本気じゃなかったわ」
「どうだか……」
茉莉香が不機嫌さを隠さず引きずったままなのが可笑しくて、私はまた笑ってしまう。こういうところが、茉莉香はあの頃のままだ。ピーターパンとそっくりな。
だけどもうきっと、私はウェンディには戻れない。可愛い弟のジョンすら、お酒を飲める年齢になったのだ。そして私と同い年の匠海は夢を諦めて地元に帰ると言う。
「そろそろお開きにしよっか」
腕時計を見ながら言う。それから、茉莉香の返事を待たずにお店のタッチパネルでお会計を頼んだ。
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