パリ左岸の夕陽

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 私は親父の突然の連絡に戸惑いを禁じ得なかった。ほとんど家出同然にフランスへ留学してから20年もの時が経過していたのだから、感情の整理が追いつかなかったのも当然である。  もちろん、親父とどのように顔を合わせてよいのかも分からなかった。私は、この20年で、親父に対してあまりにも不義理なことをやり過ぎた。親父にしてみれば顔も見たくないというのが自然の感情だと思われたが、現に彼はこのようにして私に会いたいと言ってきたのだ。  最初、私は何か裏があるのではないかと思った。鈴木の裏切りで猜疑心が強くなっていたこともあり、親父の行動に対して何かネガティブなイメージを抱けずにはおれなかった。しかし、考えてみれば、その時の私には何もなかったのである。  親父から連絡があった時、折しも、私の会社は会社更生法の適用が申請され、管財人の下で債務整理を行う段階に入っていた。私は文字通り、失うもののない人間になっていて、あとは死を待つばかりだった。そんな私に近づくメリットなどあるはずがない。よしんば、あるとすれば、考えられる可能性は一つしかなかった。  親父はきっと私に復讐がしたいのだろうと思った。  かつて、私は親父を裏切ったばかりでなく、彼を追い落とそうとまで考えた。親父はきっとその償いをさせようとしているのにちがいない。そのように考えると、すべて合点がいった。  私は思案したうえで、親父の復讐を甘んじて受け入れることにした。親父から痛罵を浴びせられようが、八つ裂きにされようが、この私に抗えようはずもない。私は、私に向けられるすべての憎悪を受け入れ、死ぬその瞬間まで罵声を浴びせられたいと思った。「太陽のせいだ」と言ってアラブ人を殺したムルソーのように。  後日、私たちは本当に会うことにした。  親父は自分から会いたいと言ってきたくせに、会談の日にちや場所を指定してきた。誤解のないように言っておくと、それは決して親父の傲慢のためではない。  親父はステージ4の膵臓がんに罹患していて既に手の施しようがない状態だった。場所や日にちをわざわざ指定して私に来させる形を取ったのは、親父の体調を考慮に入れたうえの代理人の判断だった。  私は、言われた通り、指定された日に赤坂にある親父の店へ向かった。
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