パリ左岸の夕陽

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店は夕陽の暮れ泥む冬空を背景にひっそりと佇んでいた。こだわり抜いた瀟洒な外観は、親父が修業時代に見た老舗カフェを模したもので、現代の東京に挟まれながら往時の美しさを今に伝えていた。 恥ずかしながら、私が親父の店を訪れたのはこの時が初めてであった。あれほど親父の所属する世界には入らないと心に誓ったにもかかわらず、その誓いを破ってしまったことには運命の皮肉を感じた。 私は店の応接室に通され、実に20年ぶりに親父と再会を果たした。親父はかつての豪胆なイメージからは想像もつかないほど酷くやせ衰えていた。 私は親父のあまりの変わり様にいささか拍子抜けした。私は、人生の最期に親父から冷たく見据えられ、呪詛の言葉を浴びせられることを、強く望んでいた。 しかしながら、私の前に現れたのは、病魔のために肉を殺がれた哀れな老人であり、その目には復讐の色などこれっぽっちも宿ってはいなかった。そして、何よりも、彼は、呪詛の言葉ではなく労いの言葉でもって、不義理の息子を迎えたのである。 「よく来てくれたな」 私は狼狽えながら言った。 「お久しぶりです」 「どうして、そんな顔をする? 俺にそんなことを言われるとは思わなかったか?」 「いいえ」 「まぁ、そうかたくなるな。楽にしろ」 応接室は、瀟洒な外観とは裏腹に質素な内観で設えてあり、来客用のソファとアンティークのテーブルのほかは無駄なものを一切配置していなかった。親父はソファに深々と腰掛けていて、私にも座るように促した。私は親父の顔色を窺いながら恐る恐るソファに腰を落とした。このようにして、私と親父はテーブルを挟んで睨み合う格好になった。 視線をしばらく交わした後、親父は部屋に置いてある内線電話で代理人を呼んだ。程なくして、シックなダークスーツに身を包んだ代理人が分厚い書類の束を持って応接室に入ってきた。親父は代理人から受け取った書類を、私の目の前にこれみよがしに置いた。私はわけもわからずにそれを眺めた。難解な専門用語が乱数のようにページを埋め尽くしていて、目で追っているだけでも頭が痛くなりそうだった。私は会社の債務整理で嫌と言うほど難しい言葉に振り回されてきたので、その手の書類はできれば読みたくなかった。 書類にざっと目を通したところで、私は親父に呼ばれた理由を悟った。然し、悟った時には既に遅かった。重大なことは自分の知らない間に起きていて、気付いた時には既に取り返しのつかないことになっていることが多い。人生とは得てしてそういうものである。 私は書類から目を離して親父を見た。親父は私から目を離さないで言った。 「お前にここへ来てもらったのはほかでもない。単刀直入に言う。この店をお前に譲りたい」
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