2、始まり

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 ハタと顔を上げたピヴォワン卿は笑顔になりました。 「そうだ! まだ日が出ている。馬は好きかね?」 「え? う、馬……ですか?」 「天気も良いことだし、庭園を馬で散歩してみないか? いい気分転換になる」  戸惑うわたくしに、彼は身支度を勧めます。わたくしは使用人に連れて行かれ、お亡くなりになった奥様の乗馬服に着替えさせられました。  使用人に「奥様がご健在だった時のことを思い出します」と言われ、気恥ずかしいやら、嬉しいやら――  あれよあれよ言う間に外へと連れ出されてしまったのです。  厩舎に着くなり、ピヴォワン卿は「君の馬はこれだ!」と、ご自分と同じグレーヘア……芦毛の馬をお選びになりました。  芦毛の馬は頑固だとよく聞きます。じつはわたくし、乗馬は苦手なのですよ。不安で(たま)りませんでした。  そんなわたくしの心情を察したのでしょうか。彼は、わたくしの耳元に近寄り、囁かれました。 「大丈夫。馬の目を見てごらん」  温かい息が耳を湿らせ、わたくしは魔法をかけられたかのように、ぼぅっとしてしまいました。芦毛の碧眼は、茶目っ気たっぷりの彼の目に少し似ていました。    ――怖いのかい? 大丈夫さ。もっと、おもしろがろうよ?  そう言っているようにも思えました。  夢見心地のわたくしは導かれるままに、またがります。馬の鼓動や呼気が鞍を通じて伝わってきました。  侯爵は手綱の握り方や姿勢などを簡単に指導してくださり、それからご自分も騎乗されました。 「さあ、行こう!」  先導する彼のあとについて、わたくしも疾駆します。気持ちの良い黄昏時の風が頬をなでました。赤らんだ西日が、わたくしたちを優しく照らしています。黄金色に染められる芝や物悲しげに見える花壇の花たち、長い影を伸ばす生垣……噴水の反射の眩しいこと。それらが、目の端を高速で横切っていきます。  スピードというものは脳に快楽をもたらすのですね。わたくしたちは、門を出て屋敷の周りを一周してしまいました。  爽快でした。風を切って馬を走らせるなんてことは、初めてのことです。冗談ではなく、本当に魔法みたいでした。  数十分後、馬から降りた時、わたくしとピヴォワン侯爵の距離はグッと縮まっていました。わたくしたちは好きな本や音楽、チェスの話を思う存分にしました。彼との時間は宝石なんかより、ずっと貴重で価値のあるものでした。  ところが、彼と仲良くなればなるほど、つらい現実が待っています。わたくしが婚約しているのは侯爵ではなく、その一人息子のアルマンなのです。  侯爵とは比べるべくもなく愚鈍で貧弱。内面の卑しさが全身からにじみ出ています。どうして、このようなことになってしまったのでしょう? 少しでも父親に似たところがあったのなら、わたくしもまだ我慢ができました。ですが、アルマンには一ミリだって、似たところがなかったのです。
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