積ん函(つんかん)

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積ん函(つんかん)

 十年前、一通の手紙が私の人生を支配した。  紫陽花の水彩画がプリントされた便箋たった一枚に書かれた短い手紙。  もう一枚、白紙の便箋が同封されていた理由も知らなかった子供の頃にもらった手紙だ。  あの日から、私はその手紙の返事を毎日書き続けている。  だけれども、今までに一度も書いた手紙を投函したことがない。  手紙を書き、宛名を書いた封筒には切手を貼り、時には封蝋を施した。  それでも投函されることのない手紙は、私の文机の上にただ乱雑に積み上げられている。  今日もまた、硯すずりの丘の上に水の丘を造る。  ここにいる私は何を伝えるべきだろうか。  小さな水の丘の中に墨を差し入れてゆっくりと磨すり始める。磨りながら、便箋に並べる文字を選んでゆく。  文字が浮かんで墨の香りが立つ。  また水を足して、粘りのある墨を溶かし、私の気持ちも紙の上に溶かしてゆく。  そうやって繰り返し文字を思い浮かべながら墨を磨き続けると、丘の水がやがて海へと流れだす。私の心を映すのに充分な量であるか、筆先を海に泳がせる。 「今日は、これでいいか」  十年。そうやって妥協してきた。私の海は、地球のそれより広い。硯の海に満たされた黒い液体で足りるはずもない。 「手毬花っていうのはね、ほら、この花のように並んだガクの下に本当の花が隠れているのだよ」 「女の、ううん、私のココロみたいね」 「それだと『下心』になってしまうね」  そんなつまらない記憶がよぎると、筆が吸い込む墨が穢れるようで私は筆先を海から引きあげる。  今の私。  それを自分の中に広がる海の真ん中に置き直し、ゆっくり、深く呼吸をして、墨を磨りながら拾い集めた文字たちを筆でなぞった。  復啓、手毬花の色づきに、お手紙を頂いた日に見た不思議な色の朝焼けを思い浮かべるのも、ようやく十とおを数えるようになりました。 「前略、手毬花に色が付き始めましたね。もう聞かされていたとは思いますが、紫陽花の別名の手毬花が美しい時期に生まれたのが貴女の名前の由来ですよ、手毬。手毬は今日が誕生日ですね。そこで私からのお願いです。今日から二十歳の誕生日まで、毎日お返事を書いて下さい。私は今のあなたが大好きです。たとえひとりぼっちでも」  十年前に届いた手紙。  十年後の私から届いた、鉛筆で書かれた幼い字の手紙。  この手紙を読むとき、私はいつでも「今の私」だった。  でも、まだ一度も「今の私」を好きだと思えたことがない。  二十歳になれば、明日になれば、時計の全ての針が頂点で交われば、その瞬間に変わるのだろうか。  とてもそうは思えない。なぜなら、何の根拠もないでたらめだと私自身が良く知るからだ。 「十年後の自分へ出す手紙」  そういう課題が学校から出された二分の一成人式。その課題をどう勘違いしたのか、私が書いた手紙は「十年後の自分から送られてきた手紙」になってしまっていた。  その時先生が「便箋一枚しか書かない人でも、必ず封筒には二枚入れなさい。縁起が悪いから」と、なにやら気になることを言っていたのも、誤解を生んだ原因かもしれない。  それでも自分に課した「修練」を続けたのは、その日の朝に見たこれまでで一番美しい朝焼けに、人生に希望を持ちたくなったのが原因かもしれない。  誰よりも嫌いだった自分を変えられると。  不幸中の幸いだったのは、課題の提出先が先生ではなく、十年後の自分だったこと。この失敗、勘違いは自分しか知らない。  最後の手紙を書いて数分後。日付が変わって誕生日を迎えた。  私はあの時書いた手紙と同じ内容を、筆で書いてみた。 「手毬」と書く度に、私の海にさざ波が立つ。風が吹く。 「私は今のあなたが大好きです。たとえひとりぼっちでも」  結びの言葉を書いたとき、自分のことを少しでも好きになれるかもという期待はあった。  だが、そんなに人生は簡単ではない。  心を落ち着かせ、自分と向き合って墨を磨り、筆を走らせる。  それで、たったそれだけで、嫌いだった自分を好きになれるなんてことはなかった。  ただ「手毬」という名だけは昔から好きだった。 「ああ、そうか」  私はもう一度墨を一から磨り直し、新しい便箋に筆を走らせた。  お母さん、お父さん、私は今日二十歳になりました。もう一人暮らしも慣れたけど、やっぱり少し寂しいです。特に食事の時は。  話して伝えるのは少し恥ずかしいので、文字にして感謝の言葉を送ります。  二人とも大好きです。いつもありがとう。  その手紙と共に、私はこれまで書いた十年分の手紙の宛先を両親に変え、その作業を終えた翌朝に纏めて近所の郵便局へ持ち込んだ。  都合よく十年前のような綺麗な朝焼けもない。寧ろ梅雨らしい大粒の雨が降る中だったし、十年の間に四度郵便料金が値上げしていて、追加で料金を支払わなければならなかったし、散々な誕生日だった。  それでも、私は今の私がほんの少しだけ、好きになれていた。
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