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「キョウ、その子供は産ませられない」
彼女の説得に現れたのは、よりにもよって一番会いたくない相手だった。
「奏……何でアンタが」
「亜貴……」
まだ彼女の子供は安定していない。逃げる為に沢山連れ回してしまったけれど、安全に彼女が産めるまで私は彼女を守り続けなければならなかった。それが例え奏相手だとしても。
奏は彼女だけを追っていて私の存在を知らなかった。だから目の前に現れた私の存在に驚き、奏の中で鳴り響いていた音が突然乱れ始めた。
「俺は別に他の男との子なら反対もしねぇ。だけどアイツだけはだめなんだって、キョウだって分かってんだろ?」
「分かんないよっ! キョウの子は私の子だ。どっかの男の子供じゃない、私の子なんだ!」
「黙ってろ亜貴、俺はキョウと話してる」
奏が一歩踏み出して、私は彼女の前に立ちはだかる。彼女と彼女のお腹の子だけは守り通す。私の命に変える事になっても。
気付いた時には奏に殴られていた。容赦無い奏の一撃が私の頬を打って、私の身体は部屋の隅に吹き飛ばされた。打たれた頬だけじゃなく、全身が軋むように痛い。碌に食べてもいなかった、体力が残っている訳も無かった。
奏は彼女の服を掴んで顔を寄せる。駄目だ、彼女を守らないと。彼女を奏から守らないと。
「まだ間に合う。その子供を殺せ」
「――奏、お前」
彼女の口の端が裂けるように釣り上がり、その目は繊月の様に細く、それでも不気味に光っていた。私は、私は何を見せられているのだろう。彼女は間違いなく私と同じ人間だった筈なのに。
「羨ましいんだろ? お前はあの人に何度抱かれても、あの人の子供なんか産めないから」
「――――え」
思わず口から言葉が飛び出た。聞き慣れない言葉に何も成さない私の下腹部がずきりと痛む。
「やめろ」
彼女の服を掴む奏の手に力が籠もる。奏の音が乱れ始める。奏が動揺している事は見るまでもなく明らかだった。
「お前が壊れたあの人をどれだけ愛しても、尽くしてもっ、」
「やめ、」
「お前はあの人との間に何も成せない!」
「やめろって」
「ただの性欲処理のオナホの癖によォ!!」
「やめろっつってんだろ!!」
弾けた二人の音が直撃して、私は意識を手放しかけた。一瞬視界が白んだだけですぐに意識を取り戻せたのは第四の人物が現れていて音の波を打ち消していたからだった。
とても哀しい音で、恐らくここに居る誰もがお互いの気持ちを分かっているのに、もう一歩も引けない状況のままで、奏は両膝を付いて項垂れていた。
「ちが、違うんだ亜貴……俺、は……」
「違わないだろ? 奏……」
一気に形勢逆転、奏を追い詰める側に回った彼女は奏の顔に手を伸ばしながら下から覗き込み、笑っていた。空間を埋め尽くす空気が重い、這いつくばりながらそれでも彼女の元へ向かう。どちらの味方をするべきかも分からなかったけれど、今彼女を守らなければ一生彼女はこちらに戻って来られないような気がした。
「お前は望んであの人に抱かれたんだよ奏……あの人が本当に愛しているのはお前じゃないのに。そうやって偽って、自分自身も騙して、正義のヒーローにでもなったつもりか……?」
彼女の黒い昏い言葉が、奏の心を黒く昏く侵食していく。隠しているつもりかもしれないけど、私が知る限り奏は最もメンタルが弱い。その弱点を的確に突いて奏を潰そうとしているのは彼女の真意か、それともお腹の子が――。
私は彼女を守ると決めたから、彼女を抱き締めた。彼女の中から昏い音が消えていく。そう、それでいいの。貴方は黒く染まったらいけない、それは私の役目だから。
彼女を抱き締めたまま唇を重ねる。私が愛しているのは彼女と、彼女の子供だけだから。泥も何もかも全て私が被る。私にはもう何も残っていないから。私が全てを失った理由、それは――。
「――奏、私アンタの子を堕ろしたの。その所為で二度と妊娠出来ない」
周囲の空気が凍り付いたのが分かった。それは、中学三年の冬。未熟な身体に宿った子供は、結局のところ親にバレてしまい高校に入学する前に星になった。産まれてくる事の出来なかったその命は――奏の子だった。
「…………は、……ぇ?」
ほらね、やっぱり覚えてない。奏にとってはあの夜の事なんて些細な事だった。無理な堕胎で二度と子供が産めなくなった事に対して奏を恨んだ事は一度も無かった。
奏の口から「子供を殺せ」と言われるまでは。
「奏、私はアンタの所為で二度と子供が産めない。だからキョウの子は私の子だ。アンタはキョウの子まで殺せって言うの……?」
「ま、待って、亜貴ちゃ……子供、なんっ、……俺、の……?」
奏は泣いていた。私はあの時もっともっと泣いた。泣き尽くしてもう涙の一滴も出ない位に。
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