0人が本棚に入れています
本棚に追加
「……あ、あぁ……」
腕の中で彼女が小さく呟いた。空気が一段と重苦しくなるのに気付いた。空間が歪み呼吸をしているのもやっとだった。奏は呆然としながらも全身がどこか強張っている。多分、奏の背後に現れたその人物の登場に。
「ミセル……」
彼女が告げたその言葉は私も聞いた事があった。【本物の魔女】、この人を知る者は皆そう言う。紫色の瞳が光り輝き、恐ろしい程綺麗な人だった。ミセルは奏を背後から抱き締め、そして私達を見た。
『魔女』と言われる人物たちの中でミセルはその頂点に君臨する存在だった。だけれど、この人は狂っている。
ミセルの容姿は中性的な女性だったが、その身体は男性だった。同時にミセルには兄が居たが、その中性的な男性容姿に反して身体的な性は女性だった。その人の名をレガリアといい、ミセルの前に魔女の頂点に立っていた人物だった。ミセルはレガリアを愛していた。実の兄で、姉でもあるレガリアの事を。二人こそが完全な魔女と呼ばれていた。
ミセルは九年前、自らの手で最愛のレガリアを殺害し、それを切っ掛けとして狂っていった。
「帰るよ、奏……千影の子供は、ちゃんと殺せた?」
ミセルの声をまともに聞いてはいけない、その瞳をまともに見てはいけない。ミセルはその能力を以て人を魅了し意のままに操る。魔女の能力を拒絶出来るのはこの場では同じ魔女である彼女、キョウのみ。特にキョウは――ミセル、レガリアと血縁関係がある。
「……ダメ、だミセル……俺には、殺せない……」
「――そう。お使いも出来ない子は後でお仕置きだね。今日は何枚、お前の爪を剥がそうか……?」
そのミセルの言葉で初めて気付いた。黒い革手袋を外された奏の利き手の爪が三枚無い事に。
「待って、ミセル、許っ」
懇願を口にする奏の口を左手で覆い、ミセルのネイルを施されて綺麗な右手人差し指が私達へと向けられる。それは何の変哲もない人差し指だったけれど、指の周りの空間が歪んでいるのが分かった。まずい、と感じられたのは直感で、次の瞬間私の身体はキョウによって突き飛ばされた。
床に突っ伏して、身を起こした時キョウは腹を抑えて蹲っていた。鉄の様な錆びついた香りが少しずつ室内に広まっていった。
「……キョ、ウ……?」
思わず声を上げるとミセルの視線と指先がこちらへ向けられる。奏は口を塞がれたまま藻掻いていたけれど、私自身はこれはもう無理だと悟っていた。
「…………お前は、邪魔だな」
涙で顔がぐちゃぐちゃになった奏と目が合った。ねえ奏、何でそんなに必死に――。
目を閉じた視界が明るみ、もう駄目だと思った時、誰かの声が聞こえた。
「――彼女は、駄目ですミセル」
ゆっくり目を開けると知らない男性が目の前に立っていた。
「ルーナ、お前が何で」
「彼女を害さない事、それがレガリアの意志です。引き下がって下さいミセル」
彼女、とは私のことだろうか。レガリアと呼ばれるその人は血縁関係こそ一切無いが義理の叔父にあたる人だった。叔父さんがそんな遺言を残していた事をこの時初めて知った。
「元々は、お前がやるべきだった。千影はお前の弟だろう?」
普通に話しているはずなのに、ミセルの声にはノイズが混じりどこか聞こえづらくなっていた。
「弟を責めないであげて下さい。――勿論、マキナの事も。誰も責められるような事はしていないんですから」
マキナ、と名前を告げた時ルーナと呼ばれた男性はちらりとキョウに視線を向けた。恐らくそれらは全て魔女を名乗る上での名前の様なもので、本名とは別に存在しているのだと察する事が出来た。
「責められるべき事だ!」
ミセルの絶叫で室内の窓が一斉に砕け散った。私は再び這いずりながらキョウの元へと辿り着き、彼女の状況を確認したが――もう手遅れだという事はすぐに分かった。
「魔女の血は濃くなれば災いをもたらす! 魔女同士の子などあって良い訳が無い! マキナは魔女の子! 千影も魔女の子! 決して交わってはいけない関係である事くらいお前にも分かるだろう!?」
ミセルが叫ぶ度にびりっと空気が弾ける。私はただキョウの頭を抱き寄せてその衝撃からキョウを守る事しか出来なかった。
「魔女の血を引く男女の交配が何を生み出すか、私のような」
「ミセルっ!」
ミセルの言葉を遮り奏がミセルを抱き締める。その姿に何故か心がとても痛んだ。
「……もう、いいだろ。頼むから、もう、帰ろう……?」
奏の一言で空間の歪みが収まる。その歪みを生み出していたミセルの指先はずっとルーナへと向けられていて、ミセルはその手を奏に促されながら下ろす。下ろした手をそのまま奏の腰へと回して皆の目の前でミセルは奏へ噛み付くように口付けた。何故だろう、ついさっき私も奏の目の前で同じ事をキョウとしたのに、すごく、すごく胸が裂けそうな程に痛む。
僅かな水音と微かな呻き声、奏の身体は電流でも打たれているようにびくつき、ミセルが唾液の糸を引きながら唇を放した時、ミセルは私を見て笑っていた様に見えた。
「――奏、お前は誰の物?」
呼吸を荒らげながらミセルに掴まる奏は決してこちらを振り返ろうとはしなかった。ミセルからの問いに奏の肩は震え、酷く苦しそうな音が私の中へと響いてきた。
「…………ミセル、ミセルを、愛してる。……お願い、もう、帰りたい」
「奏は渡さない」
その言葉は声では無く、私の心の中へ直接飛び込んできた気がした。気が付いた時奏の姿はミセルと共にもう消えていて、その場には私とキョウ、そしてルーナという男性だけが残された。
最初のコメントを投稿しよう!