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Ⅷ
谷脇調査事務所に来る依頼の傾向として、浮気調査の他に身上調査がある。世話になった相手の今の住所を知りたいや、理由は人によって様々ではあるが、近年増加しているストーカー被害を受けて、犯罪に関わりそうな依頼は請けないというのが方針のようだった。
「あ」
総次のパソコンの前で依頼メールの確認をしていた透が突然声を出し、顔を上げると目が合った進が自然と足を運び透のパソコン画面に目を向ける。
「あ」
進も透と全く同じ反応を示した。
「総次どうしよう。 この依頼請ける?」
依頼内容も告げず、二人は困惑しているかの様子で画面に写し出される依頼内容を確認する。
「内容は?」
「身上調査……だと思うけど……」
どこか煮え切らない透の口調。進は無言のまま画面を見つめるが眉間に皺が寄っている。
「調査対象は『綾瀬総次』」
「俺……?ちょっと、それ誰から……」
「依頼人の名前は志村祐一郎」
不審な依頼に自ら確認をしようと進めた総次の足が進の言葉でぴたりと止まる。
「誰なんですか?」
着いていけない会話の流れに正義がようやく口を開く。
「刺しに来たか」
「ああ、刺しに来たんだろうな」
珍しく透と進の意見が一致し、二人は顔を見合せ溜息を吐く。
そしてまた珍しく、仕事中は煙草を吸わないはずの総次が窓際で煙草を吸い始めていた。
「えっと、あの……」
「元カレ」
誰に聞けばまともな回答をしてくれるのか、総次のデスク前にいる二人と、窓際の総次へと交互に視線を送りながら困惑していた正義に一言だけで透が答えを教えた。
「何番目だっけ?」
「……多分、最後から二番目」
澄み渡る青空に目を細めながら、総次は外に向かって長く煙を吐き出す。
「最後から」という言葉に多少の疑問は残ったものの、総次にとってあまり良い思い出ではない事は確かなようだった。
「正義、教えてあげよっか?」
張本人を差し置き、透は手招きをして正義をデスクに呼び寄せる。総次もあまりその事に対しては興味を示していないらしく、悪巧みでも企んでいそうな透を一瞥するだけで特にそれ以上の言及はしなかった。ただ総次の機嫌が頗る悪い事だけは正義にも分かった。
「志村は、総次が初めて自分から捨てた相手だ」
進はそれだけを言うと自分の私室へと戻っていってしまった。
「イエスマンだから告られたら断れない総次がさー初めて自分から『二度と顔も見たくない』って感じの事言ってばっさり切り捨てたらしいよ」
「何でまた……」
総次からの制止が入らない為、「聞いても良い話」なのだと正義は思う事にした。
――『総次、可愛い僕のお姫様』
――お姫様って……
――『大好き。 総次、僕だけのもの』
――『総次。 愛してる』
――あー、はいはい。
――『総次は?』
――『なあ、総次は?』
――『総次は僕のこと愛してないの?』
――『ねえ総……』
――疲れた。
――『……え?』
――良く考えてみたけど、そこまでお前のこと好きじゃないみたい。
――『何言ってんだよ総次……』
――合わないよ。 もう無理。
――『待てよ、ちゃんと話を――』
「総次?」
「!」
透の声掛けで、総次は現実に引き戻される。灰の燃え尽きた煙草はいつの間にか指の間から離れ、恐らく窓から地上に落下してしまったのだろう。その事にすら気付かない程総次の思考を侵食していた昔の恋人の存在。
「……優しすぎたから」
「え?」
青空に目が眩んだのか、室内に体勢を戻した総次はしきりに両手で目を擦る。その時に口から漏れてしまった言葉だった。
「透さん、取り敢えずその依頼は破棄。『依頼をお請け出来ない理由はお伝えしておりません』。珈琲飲む人?」
どこか苛ついている様な総次は早口で対応を告げると、いつの間にか片手に珈琲のボトルを持っていた。最後の問い掛けに対して透と正義は反射的に手を上げる。
「……俺も飲む」
私室に戻ったはずの進も扉から顔を出し、一言だけ告げると再び中に戻る。
急に黙った総次は人数分の珈琲をグラスに注ぐと一番始めに透、次に正義の順に渡していき、最後に余ったグラスを持って進の部屋へと向かう。
「……ねえ正義? 総次を落としたいならもっと強引に行かないと駄目だよ」
総次に聞こえない程度の小さな声で、透は正義にだけ分かるように囁く。目は悪戯を考えているように細く微笑み、グラスを持っていない片手はパソコンのキーボードを操作していた。
「身体の関係だけなら強引に迫れば総次は幾らでもOKしてくれるけど、もし心まで欲しいなら今のままじゃダメ」
「と、透さん?何言って……」
まるで心の中を見透かされたような透の指摘に総次の鼓動が大きく鳴る。
「志村祐一郎は総次に捨てられてからおかしくなった。昼夜問わず総次を付け狙ってストーキングをしていた」
「……はい」
「今、うちが断っても他の所に依頼をするよ。絶対にまた総次の前に現れる」
透の表情はいつの間にか真剣なものとなっており、それに釣られて正義の鼓動も余計に大きくなっていく。透は注意を促しているのだ、と気付く事が出来た。
「祐一郎の総次への執着心は異常だ。まあ祐一郎だけとは言えないけど。……意味、分かるよね?」
「刺す……殺すつもりって事ですよね?」
先刻透と進が話していた事が正義の頭を過った。自分のものにならないのなら、といった感情は決して珍しくない事くらい正義でも知っていた。正義自身としては今までの交際相手にそのような感情を抱いた事は無かったが。
「別れた時から総次は思ってたみたいだよ。完璧に痕跡を消さないとアイツは絶対刺しに来るって」
「その人は……総次さんに何をしたんですか?」
「何もしてないと思うよ?ただ総次は少し愛情過多なだけ」
それでも透は全てを語った訳では無いのだと思う。男ならば誰でも張りたいと思う見栄や、女の前では隠したいと思う泣き言などの弱い部分を、総次は全て受け入れ、相手の心の中へ意図も容易く溶け込むことが出来るのだと言う。またそれでありながら男の虚栄心を擽る事も上手く、遥か昔に流行った「昼は淑女、夜は娼婦」をそのまま体現しているらしい。
「でもね、中には祐一郎みたいに勘違いする奴がいるから」
きっとまだ話したくない事があるのだろう。透は窓の外の雲を黙って見つめ続けていた。
「総次、お前に業務命令な」
「はっ、はい!」
先程から透の印象はコロコロと変わる。総次をからかって遊ぶ悪戯っ子のような顔。また総次を心配する親のような顔。きっとそのどれもが総次との関係を現すことに相応しく、どれもが透の真の顔である事に間違いはないだろう。
「総次から離れるな。 何があっても総次を守れ」
「はいっ――!」
この時の正義は、透に言われた事の本当の意味を分かってはいなかった。
しかしすぐに正義はその言葉の意味を知る事となる。
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