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先程から動悸が治まらない。まさか玲於からその話を持ち出されると思っていなかった千景は頭を垂れてシャンプーの泡を落とす。今になって性犯罪者と罵られるのだろうか。性犯罪は親告罪だっただろうか、時効は何年だっただろうか、そんな事ばかりが頭の中を巡る。
幾ら事故だったと主張したところで、被害者の玲於から見れば一生のトラウマとなっても仕方の無い出来事だ。幼少期のそういった心の傷が一生消える事が無い事を千景は知っていた。
「あー、あったなあ。お前めちゃくちゃ力入れて背中洗うんだもん。暫くひりひりしたんだぜ?」
下手に話題を反らす事より思い切り指針をずらす事を千景は選んだ。
「……それは、ごめん……」
ぶくぶくと顔の下半分まで湯に浸かった状態で玲於は呟く。背中の痛みと性犯罪のトラウマを何とか御破算に出来ないものか、そんなちゃちな皮算用も千景の中に無かった訳ではない。
「……ちか兄、洗い終わった?」
「終わったよー」
「じゃ、こっち来て?」
「狭ぇよ」
「良いから」
簡単に腕を掴まれる。大人の男なのだと改めて実感しながらも、渋々立ち上がり男二人には狭すぎる浴槽に片足を捩じ込む。ナイロンタオルを全面に垂らしたのは玲於が不要な事を思い出さないようにと画策した苦肉の策だ。
ちらりとナイロンタオルを指先で捲り玲於はその奥を覗き込む。
「オイ、見んな」
「『でっけー』」
「ッ!」
子供時代の玲於に自分はどんな喋り方をしていただろうか。千景にはその記憶が朧気だ。このように語気を強めた言い方では今までの玲於ならば目にいっぱい涙を浮かべただろう。今の玲於はもう子供ではないのだ。自然と年相応の相手に対する口調となっていた。玲於は泣くだろうか、過去の罪を目の前に突きつけてくるだろうか。
「……今のお前から見たらそうでもないだろ」
ぢゃぽん、と勢いを付けて湯船に肩まで浸かる。跳ねた湯が玲於の顔に掛かり少しだけ眉に皺が寄った事が分かった。
普段の癖で足を伸ばせばぐにっと嫌な感触が甲に当たる。
急いで足を引こうとするがただでさえ身動きが取り辛いこの状況ではそれも難しい。二人の男の足は狭い浴槽内で複雑に絡み合う。どうやら湯の中で玲於が千景の脹脛と足先を掴んでいるようだった。
「……ねえ、ちか兄……」
「ッ、っ悪いな、痛かっただろ?」
「俺のも……でかい?」
踵を支点に千景の足がぐいっと曲げられる。脹脛から支えられていたので特に湯船の中に引き込まれる事もなく、足の甲から柔らかい感触は無くなった。――その代わりに、足の裏に硬い物が押し付けられる。千景は本能的に足の指先を動かしてはいけないものと悟った。
「で……かいんじゃね? そりゃあ十年も経てばなあ」
平静を扮えているだろうか。意識を足裏から外し、例え玲於が自らそこへ押し付け擦り付けてきていようが性犯罪者ではない自分には何の刺激にもならない。例え玲於が親指と人差し指の隙間にしきりに何かを押し付けようとしてきていても。大人の男の余裕を見せなければ、今以外のいつその機会があるのか。
「ちか兄……」
湯面が揺れる。玲於の顔が先程よりずっと近くにある。足は既に解放されていた。
幾分か大人びた面持ちではあるが、一つ一つの顔のパーツを見ればそれは確かにあの頃の玲於の面影を残している。一言で言えば美形なのだ。早く虎太郎に前髪を切って貰わないと、と海藻のように玲於の顔にへばりつく前髪を指先で取り払う。
「俺、昔からちか兄の事大好き」
性犯罪者への告発を覚悟していた千景は呆気に取られる。好きと言われた、あの天使だった玲於に。あの天使から成長したこの美形に。
玲於の指先が千景の顎を持ち上げ、ますます玲於の顔が近付く。このままではキスになるなとぼんやりと考える。ぴちゃんと水滴がタイルに落ちる音が響く。
ぐう……
ぐぎゅるるるる……
それを無残にもぶち壊したのは玲於の腹の音だった。
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