第三章

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「っ――」  玲於の瞳に薄ら光が感謝する。 「レオ?」 「……ごめ、ちか兄」 「うん……?」  ようやく玲於が千景から両腕を離した。動きやすくなった千景はスプーンを置き身を返して玲於の頭部を抱き寄せる。 「あったかいご飯……久しぶりに食べたから……」  その言葉は千景の胸を強く締め付けた。拭っても零れ落ちる涙を何度も手の甲で拭くぐちゃぐちゃになったその顔を千景は「可愛い」と思った。  もう何年間母親と一緒に食事をして居なかったのだろう。時折様子を見に行っていたであろう竜之介と虎太郎とは一緒に食事をする事は無かったのだろうか。誰でも当然に得る事が出来る食事という温かみを忘れてしまえる程の時を一人で過ごしてきたのか。  玲於はまだ幾らでもやり直しのきく年齢だった。何歳になっても本人が願えばやり直す事は容易い。過去を忘れるのではなくそれらを糧にして新たな自分を作り出す事は出来る。千景にも経験があるからだった。 「これからは俺と一緒にあったかいご飯食べような……もう、無理しなくて良いから」 「うん……っうん、……!」  肩口に玲於の頭部を抱き寄せればじんわりと水気が広がっていく。あの後玲於から離れてしまった事を千景は後悔した。だからこそ千景は欠けてしまった十年を埋めてあげたい。もっと楽しい事も、面白い事も人生にはあるのだと、玲於に千景が与えてあげる事が出来るのならば僥倖だった。  スプーンを再び手に取り一口分を掬う。それを口に運べば今度は玲於がその手を重ね自ら口に運ぶ。自ら食事をするのは生きる本能だ。玲於にはちゃんと生きる意思がある。おかしな形ではあるが保護者として千景がしてあげられる事はやるつもりだった。  一口、二口と自ら口に運び始める玲於。それでも何故か玲於はスプーンごと千景の手を離さなかった。自分で食べられるのならばそろそろ手を離して欲しいと考えつつも結局皿が空になるまで千景は玲於の食事を見守り続けた。  食べるものが無くなれば玲於はスプーンから手を離し、同時に千景の手も解放される。「いただきます」や「ごちそうさま」はもう少し落ち着いてから教えるとして、口の端にこびり付いた黄色いルウを指先で拭い千景はそれを自分の舌で舐め取る。やはり甘口はカレーという実感が無い。 「ちかにぃ……」  落ち着いた筈の涙が再び玲於の双眸に浮かぶ。ルウを拭った右手首を捕まれ玲於の顔がスローモーションのようにゆっくりと近付いてくる。思わず千景は先程の風呂での状況を思い出す。  先程は豪快な玲於の腹の音に邪魔をされたが、今は腹の音という邪魔者は存在しない状況だ。邪魔がなければあの時どうなっていたのか――  ぷるぷるでぷにぷにだったあの頃とは違う骨ばった大人の男。唇が重なれば一体どうなるのか。  ガッツンっ 「いっ、づぁ……!」  唇の奥にある互いの歯同士がぶつかり鈍い音を立てる。口腔内に広がる鈍痛。千景は口元を抑えて床に転げ回りつつ痛みに耐える。玲於も同じだった。それでも千景の内側から沸々と込み上がってくるのは、愉悦感。  千景は完全に理解したのだった。玲於の中身は小学生男子そのものであったのだと。携帯電話もテレビもインターネットも無い世界で十年間、玲於は成長する方法を身に付ける事が出来なかった。玲於にとってキスとは唇を重ね合わせる事。勢いが余り過ぎてこういった事故が起こる事すらも想定が出来ない、つまり紛うことなく童貞なのである。 「レオっ、お前……ほんと、可愛い」  攣る程に痛む腹部を抑え、笑い過ぎで湧き上がった涙を指先で拭いつつ千景はやっとこさ起き上がり、しゅんと眉を落とした玲於の肩を叩く。  玲於自身も何かを間違っていた事には気付いたらしく、倒れた千景の様子をおどおどと伺っていたので、千景が思いの外怒っていなかった事に表情がぱあっと明るくなった。 「俺の事……好き?」  ちゅっ、と啄むように玲於は千景に口付ける。加減を覚えて今度は歯に激突しなかった。覚えが早いなと千景は感心しつつ、くしゃりと玲於の頭を撫でてからその手を滑らせて頬に触れる。 「好きだよ。そのままのレオで居てな」
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