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「うん、後は? もう全部良いのか?」
玲於の持ち物は鞄一つ分程しか無かった。その鞄ですら持ち手が擦り切れ、両手で抱え込まなければ持ち歩く事も出来ない。勿論その中に玲於の母親である涼音の位牌も含まれる。きっと涼音も余り家事が得意では無かったのだろう。幾ら仕事で忙しいとしても足の踏み場がない程の汚部屋になる事は滅多にない。少し部屋を覗き込んだだけで分かる即席麺の袋、脱ぎ捨てられた女性物の下着類――。恐らく涼音の生前から部屋はこの状態で、涼音の死後玲於一人では片付けの目処が付かない事から大家から体良く追い出されたというのが真相なのだろう。
「殆どの物は捨てるとしても、あん中から貴重品探すのも大変だったんぜ」
「入ったんかよ……」
竜之介は猛者だな、と千景は思った。自分ならばあの空間に足を踏み入れる事も憚られる。勿論必要であるならばそれに限らない。大切に可愛がってきていた弟の部屋の捜索を汚いからという理由だけで拒否するような度量が小さい男でも無かった。
「俺にも声掛けてくれたら手伝ったのに。りゅうととらでやったのか?」
「もっちろーん」
「…………こんな部屋、……ちか兄が入ったら汚れちゃうから……」
ぽつりと玲於が呟いたが生憎千景はその言葉を聞き逃した。俯き気味に両腕に鞄を抱え、ぼろぼろに汚れたサンダルを履いた玲於が千景に歩みを寄せる。自分の姿がまずいという事を理解しているのか、二メートル程の距離を置いて立ち止まる。極端に背中を丸めているのは長身故の苦労だろうか。
虎太郎から引き篭もりと教えられた時、千景の脳裏に浮かんだのはぶくぶくに丸く肥えて、髪も髭も伸びっぱなしで一日中部屋の中でTVゲームをしている様子だった。そのイメージから今の玲於の現状は大きく離れる。髪はたしかに伸びっぱなしではあるが髭はなく、肥えているどころか食べているのかと不安になるくらいの縦にひょろ長い体躯。そして玲於の家にはゲーム機そのものが無かったのだ。この数年間家の中に閉じ籠もり何を娯楽としていたのか、千景には全く想像が出来なかった。
「ちか兄……、あの、これから……お世話になります……」
「えっ? ああうん、宜しくな?」
「ちか、レオが着てる物も靴も全部捨てちゃって良いから」
玲於の衣類や日用品等新しく必要になる物の料金は全て本家が出すという話だった。勿論千景宅の家賃や光熱費も半額とまではいかなくとも何割かは負担して貰える事で話は付いている。玲於を引き取って貰えるだけでも感謝すべき事なので、人ひとりが増える分は当然の責任として竜之介が話を取り付け父親である寛壱もそれを快諾したらしい。
これから共に暮らす存在として千景はにこやかな笑みを浮かべて右手を差し出し握手を求める。
「、っ……」
「レオ?」
千景が差し出した手を取らず、玲於は鞄を両腕に強く抱きしめた儘ぶんぶんと首を左右に大きく振る。
「だめっ……俺、今汚いから……」
玲於が気にするほど見た目は汚くはない。身なりの手入れをしていないというだけで肌に垢がこびりついていたり、不快な体臭がある訳でも無かった。フケまみれという訳ではなく、単純に傷んでいるだけのようだった。風呂にだけはそれなりに入っていたのだろう。
「髪はさあ、近いうちとらに切りに行かせるからさ。まだ外出るのはしんどいだろ?」
車の電子ロックを外しながら竜之介は千景と玲於に乗車を促す。美容師の虎太郎がこの姿を見れば恐らく手を加えられずにいられないだろう。そういえば虐められて引き籠りになったと虎太郎が言っていた。引き籠もりというのは家から出ないから引き籠もりなのであり、玲於を美容院に連れて行くことは恐らく出来なかった。虎太郎が訪問するという手段もあっただろうが、この部屋の何処でそれが出来るというのか。
あの天使のように愛くるしかった玲於が外に出る事をこんなにも怯える程の何があったのか。風呂に入れた後でゆっくり聞こうと考え、手荷物もない千景は車へと向かう。
「ちか兄……」
「うん?」
千景の服の裾を玲於が遠慮しがちに小さく引く。おどおどとしていた目線がすっと千景に向けられる。
「会えて……嬉しい」
ぎこちなく笑うその顔は確かに天使だった頃の玲於の照れ笑いにも似ていた。
「なあ見てりゅう! レオが可愛い! レオが可愛い!」
「え、ちょっ、ちか兄……」
距離を取りながらも自分からは離れようとしない玲於の事が警戒心の強い大きな犬のようにも見えた。その愛くるしさは子供の頃とちっとも変わっておらず、少し縦に長く伸びただけのようだった。両腕をあげわしわしとぼさぼさの頭髪を乱す。天使は失われていなかったのだと、千景は玲於の肩を抱き車への乗車を促した。
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