21人が本棚に入れています
本棚に追加
第八章
那由多と身体を重ねたという事実は、詩緒にとっては取るに足らない事だった。自分の身体は芯まで汚れきっている。それでも構わないと那由多は言って詩緒を抱いた。
一晩中那由多は詩緒の身体を放さず、耳元で何度も愛を囁いた。「好き」や「愛してる」、「可愛い」なんて言葉を今まで誰かから告げられた事の無かった詩緒は同時に動揺もしていた。ただ身体の関係だけでは駄目だったのだろうか、詩緒は今までそうしてきていた。しかしそれは決して自らが望んだ訳では無く、気付けばいつでもそういった状況になってしまっていた。
「……下らねぇ」
相手が那由多であってもきっと結末は変わらない。最後は傷付け合って、それで終わりだ。物珍しいのは最初だけだと、午前中に片付けるべく仕事を終えた詩緒は、真香と斎からの社内チャットからの返事が無い事を確認すると早めの昼食を済ませてしまおうと、出勤前にコンビニで買っておいた袋からゼリー飲料のパウチを取り出す。
「お前、まだそんなモンばっか食べてんのかよ」
口から心臓が飛び出るかと思う程詩緒は驚いた。振り返れば個室の入り口に持たれて綜真が立ち詩緒を見ていた。二人の距離は十分にある、ゆっくりと深い呼吸を繰り返しながら詩緒が視線を送ると、綜真はかつかつと淀む事のない歩幅でデスク前に座る詩緒の側へと近寄る。
「野菜もちゃんと食えっつっただろ」
ぽん、とデスクの上に綜真が置いたのは紙パック入りの野菜ジュース。詩緒は何度か綜真に食生活を注意されていた事を思い出した。呼吸に問題は無く、代わりに強く握り締めたパウチからは中身が溢れ出て詩緒の手とデスクを汚していた。
綜真が詩緒の手首を掴み、詩緒の手からパウチが床に落ちる。ゼリーでこれ以上袖口が汚れないよう綜真は詩緒のシャツの袖を捲ると手を伝い流れるゼリーに、舌を這わせた。
言葉が紡げない訳では無い、呼吸にも問題は無かった。詩緒は指一つ動かせずにただ綜真の行動を見つめていた。掌の皺から指の股まで、隙間なく舐め取って行く綜真の舌は熱かった。
何か言わなければ、詩緒は焦燥感に駆られる。しかし予想の斜め上過ぎる綜真の行動に詩緒は伝えるべき言葉の選択を誤った。
「……うる、っさいな、放っとけよ!」
手を振り払った時、一瞬だけ見えた綜真の表情に詩緒の心が大きく揺さぶられた。そのまま綜真は両手をスラックスのポケットの中へと入れると踵を返して詩緒に背を向ける。
「……余計な世話だったな」
「…………そ、……ま」
また選択を誤った、と詩緒はデスクチェアから腰を浮かせる。伝えたい言葉はそんな物ではなく、もっと大事な事だった。
詩緒は駆けた。部屋を出た綜真を追う為に。入り口の扉に手を掛け綜真が進んだ先へと身を乗り出す。
「待って綜、ま……」
「今戻りました榊さん」
突然背後から掛けられた言葉に、詩緒は心臓が止まるかと思う程に驚いた。詩緒の背後から現れた那由多は詩緒の腹に手を回し耳元へ音を立てて口付けた。詩緒の視線の先、部屋に戻ろうとしていた綜真はただ二人を一瞥するとそのまま何も言わずに共有の個室へと戻った。
珍しく別棟にある自らの個室で作業を行っていた四條は意図せず三人の関係性を目の当たりにして眉間を抑える。幸いな事に、今の所詩緒が綜真の存在にストレスを感じて作業に身が入らないという報告は受けてはいない。元々詩緒、真香、斎の三人で上手くバランスが取れていたこの第五分室、そこに詩緒を巡る二人の人物が新たに加わった事で起こる関係性の変化は斎一人の報告に頼る訳にも行かず、以前より頻繁に四條は分室で過ごす事にしていた。
四條は従弟である綜真の事を幼い頃から知っていた。多少肩入れしたくなる気持ちはあれど仕事に公私混同は禁物、詩緒にとっての弊害となるならば従弟であっても切り捨てる決断は必要になってくるだろう。
今回の斎の事故の件もあり、どうしても人手は必要だった。斎には営業事務の仕事に専念して貰いたい為、四條は自らの片腕となる存在を必要としていた。目を付けた社員に以前から何度も声を掛けているにも関わらず未だに首を縦に振らないその人物への攻略を考えながら、四條は自室の扉を開けて顔を出す。
「榊、一緒にお昼行こか」
最初のコメントを投稿しよう!