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「吐く? 吐ける? 俺水貰って来るから」
男子トイレ一番奥の個室、便座を上げた便器の前に綜真を座り込ませると詩緒は厨房へ向かおうと綜真から一旦視線を外す。誤って酒を飲んだ綜真をこうして介抱した事が何回あっただろうか、付き合っていた期間はそう長くは無かった。
「…………詩緒」
「なに、……ッ!?」
声を掛けられた詩緒が振り返るのと同時に視界が反転した。腕を掴まれ個室の中へと連れ込まれた詩緒は閉ざした扉を背中に押し付けられる。綜真は便座ごと蓋を下ろしてその上に片膝を乗せる。
「飲んでねェよ初めから一滴も。……ようやく二人っきりになれた」
「……綜真」
あれから綜真は詩緒と二人きりになれる機会を伺っていた。分室の中では常に真香か斎が詩緒の側に居て、とてもではないが詩緒一人に声をかける事など叶わなかったのだ。多少卑怯な手段を使ったと自覚のある綜真ではあったが、こうでもしないと詩緒と二人きりで話す時間などとても作れそうにも無かった。
「詩緒、頼むから俺の話を聞いてくれ……」
「は、話……うん……」
内側からは引かないと開かない扉は今詩緒自身の身体で塞がれている。開く為には退かなければならないが、詩緒の目の前に立つ綜真が詩緒を扉に押し付けている限りそれは叶わない。
狭い密室で二人きりの状況、目の前には嘗て交際経験のある相手。生きていればいつかまた会える等という言葉を詩緒は信じてはいなかった。二度と会う事は無いと思っていたからこそ、今目前に居る綜真に対しての的確な言葉が何一つ出て来ない。
「あの時、最後にちゃんと伝えられなかったから」
綜真の手が詩緒の頬を撫でる。大きくて無骨な綜真の手があの頃大好きだった。今はもう綜真に触れられる事が詩緒にとっての恐怖でしか無い。
詩緒の全身が強ばる。酸素を幾ら吸っても肺が満たされない感覚、頭の中に白い靄が掛かったように正常な思考が難しくなる。確かに伝えなければならない事があった筈なのに、綜真が目の前に居ると言葉すら上手く紡げない。
「そう、まっ……おれ、っ」
あの日と同じ状況だ、と綜真はすぐに察する事が出来た。酸素を吸い込もうとする回数だけが多い。
「詩緒、吸い過ぎだ。息を吐け。ゆっくりで良いから」
こくこくと詩緒は頷く。頭では分かっているつもりでも身体が追い付かない苦しさに詩緒の頬を伝い流れる涙。普段は彫刻のように滅多に表情を変えない詩緒の苦痛に歪む表情に、綜真の心が締め付けられるように痛んだ。
――――嘘吐き!!
あの時の詩緒は感情のままに綜真を責め立てた。気が付けば綜真は詩緒の泣き顔しか思い出せないようになっていた。幸せな時間も、確かに存在した筈なのに。
「詩緒……」
詩緒の肩に手を回しひたすら酸素を吸い込もうとするその唇に綜真は己の唇を重ねる。詩緒が酸素を求めるのと同時に綜真は口移しで二酸化炭素を送り込む。少し煙草の苦い味がする呼気が詩緒の肺まで循環する。
詩緒の呼吸が落ち着くまで何十回もその行為を繰り返す。以前は無かった、詩緒の唇から感じる酒と煙草の味。同時に綜真は斎に言われた言葉を思い出す。綜真の知るあの頃の詩緒はもう何処にも居ないのだと。
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