第四章 逃亡の理由

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「……ねえ」 「んーなに?」  夢現のように感じられたひとときも、微睡む寝具の中でそれが現実であるということを否が応でも知らしめる。腰に薄い毛布を一枚纏ったままの暁は、隣で俯せに足をばたつかせながら暗い部屋の中暁の所有する文庫本を斜め読みしている絃成へちらりと視線を送る。  凡そ児童向けに作られた物でないその文庫本は、要所に振り仮名が振られている訳ではなく恐らく絃成には読み切れないだろうなと考えながら、枕元に転がっていた煙草へ手を伸ばして掴む。ゆっくりと布団の上で身を起こし、無造作にライターで火を灯すと浮き上がる橙色の揺らぎが暗い室内の中唯一の暖かさを生み出していた。煙草を吸い始めた理由を正確には覚えていない。ただ陰キャだと揶揄われないように、大人ぶって格好を付けたかっただけだったのかもしれない。味の無い煙を灰の奥まで吸い込み真っ白な煙を細く室内に吐き出す。  今が冬ではなく夏前で良かった。夜半を過ぎても肌寒さは無く、半裸状態のままであっても余韻に浸る事が出来た。明日こそはべたつく布団を干さなければと考えながら暁は朽ちる灰を灰皿へと落とす。 「何したの? ……イトナは何から隠れてんの」  結局何をしでかして何から逃げているのか、有耶無耶にしたままだった質問を絃成へと投げかける。暁の質問にページを捲る絃成の手がぴくりと止まるが、絃成の視線は依然と文庫本に向けられたまま、僅かに重苦しい空気が二人の間に流れた。 「……刺した」 「……誰を?」  驚くほどするりと絃成はその言葉を述べた。暁の瞳孔が一瞬小さくなり、明かされた逃亡の理由に心臓が大きく高鳴りを見せた。暁の問いかけに絃成は読みかけだった文庫本を閉じ敷布団の上へと置く。その文庫本に両手を乗せてひとつ呼吸を繰り返した後、絃成は起き上がって煙草を吸う暁を仰ぎ見るように振り返る。 「ニーナ」  それは暁にとって衝撃的な一言だった。暁の知る限り絃成と新名(ニーナ)の仲は良好に思えていた。似た者同士というか仲間内でも特に二人は波長が似通っており、絃成は和人や那月よりも新名と遊びに行くことなどが多かった。 「ニーナ、を? ……えっ?」  聞き間違いかと思った暁は咄嗟に絃成の言葉を反芻するが、今この瞬間に絃成が暁の知らない人物の名前を出す筈もなく、まるで本当の兄のように慕っていた新名を絃成が刺したという発言に暁の頭の中は真っ白になりそうだった。 「ニーナ刺して、アイツらに追われてる」 「……和くんから、も?」  部屋に戻る直前、和人に声を掛けられた。様子から推測するに和人は絃成を探しているようだった。もしあの時暁が絃成の所在を馬鹿正直に明かしていたならば、きっと絃成は今ここに居なかっただろう。和人は皆の纏め役としてのカリスマ性や行動力も持ち合わせており、新名を絃成が刺したと知れば何としてでも絃成を探し出し制裁を受けさせるだろう。仲間の誰に被害が及んでも公平な立場で平等に接する和人であるからこそ、新名に追われている絃成を保護しようとしているとも考えられたが、そういった点において和人はどちらかに肩入れするという事は無かった。和人にとって新名がどうでも良い存在であるのならば、新名と絃成の間で何が起ころうとも無視していれば良いだけの話だった。仲間として看過出来ない存在であるからこそ、和人は今絃成を探そうとしている。 「ナツ兄以外のみんな」 「那月……あ、そっか、元々那月とろ、ニーナ仲良く無いからか」  考え方や思考はどちらかといえば和人寄りである那月と新名が不仲である事は明白だった。二人の年齢が近いこともあり歳近の兄弟のように顔を合わせればその都度言い合いになっていた。那月は新名の軽薄な言動をどうしても受け入れがたく、和人が同席していない限り手が出そうになった事は何度もあった。  二人とも結成時からSCHRÖDINGのファンではあったが、六年前にギターがゼロからハジメに代わった事が二人の間に大きな軋轢を生んだ原因でもあった。那月にも悩んだ時期はあったが、比較的良好にハジメの加入を受け入れる事が出来た。しかし新名はハジメを受け入れる事が出来ず、傍から見れば下らない言い争いではあったがSCHRÖDINGの音楽を愛する者としての矜持は譲れない問題だった。暁もハジメの音楽を受け入れる事が出来た存在であり、その点もあり那月とはグループを抜けてからも良好な関係を保ち続けていた。 「アキは飲み会参加してないから知らないだろうけどさ、結構ギスってんぜあの二人」 「イトナに分かるくらいなら相当なんだろうね」 「なにそれ」 「何でもない」  ハジメの存在を受け入れる事が出来ようとも出来ずとも、新名と那月ほどの対立は他に存在していなかった。絃成は元々ハジメが加入してからのSCHRÖDINGのファンであり、暁も新名との仲が険悪という訳でも無かった。和人がハジメの加入をどう捉えているかは分からなかったが、新名のように露骨な嫌悪感を口に出すような事は今まで一度も無かった。  暁が灰皿に押し付け煙草を消火するのを待ってから絃成は上体を起こして暁にキスをする。唇から伝わる苦い味は、同じく喫煙者である萌歌を彷彿とさせたが、それを口に出せば再び暁が泣いてしまうかもしれないと考えた絃成は言葉を呑み込む。グループに参加した時点の絃成は未成年だったが、同じく未成年だった筈の新名から勧められて煙草を試した事はあった。那月は新名のそういうところも嫌いだと何かと理由を付けて揚げ足を取ろうとしていたのを絃成は覚えていた。 「何で刺したの」  確かに新名は血の気が多く喧嘩っ早い人物ではあったが、絃成の事を実の弟のように可愛がっていた。同じように新名を兄同等に慕っていた絃成が傷害事件を起こすまで拗れるような事が自分の知らない四年間の内に起こったのか、暁は絃成の顔を覗き込みながら問い掛ける。 「……言いたくねえ」 「ふうん」  可能性のひとつとしてもし絃成と新名の仲を拗らせる理由があったとしたら――暁は考えることをやめた。今そのことに思考を馳せる事が無意味であると分かっていたからだった。二人の間に起こり得る問題があるとしたならば女性問題くらいのものだろう。享楽主義の新名は男女も問わなければ彼氏が居る相手であろうと問わない。新名が萌歌に手を出したと考えるならば、今絃成と萌歌が別れているという状況にも納得が出来た。 「――これから、どうするつもり?」  寒くない季節とはいえ流石にシャワーでも浴びたいと考えた暁は脱衣所へ視線を送った後、先に一本吸ってからにしようかと再び煙草の箱へ視線を落とす。腰を浮かせた暁の腕を引き絃成はそのまま暁の身体を布団の上へと引き倒す。するりと片手が暁の腰へと伸び先程まで確かに繋がっていた部位へと指が這う。 「そうだなあ……海外にでも逃げるか」  安易に海外逃亡という言葉が出る時点でまだまだ子供だと暁の表情が綻ぶ。新名にはグループの仲間以外にも柄の悪い友人が何人も居る。昨晩転がり込んできてから一度も外へは出ていない絃成であったが、ずっとこのまま暁の部屋に隠れている訳にも行かない。せめて新名や和人の手が届かないところへと逃げない限り今後絃成に安息の日は訪れないだろう。 「パスポート持ってんの?」 「無ぇけど。まあ海外は冗談としてもさ、ナツ兄から関西の知り合いの連絡先貰ってんだ」  那月だけは絃成を追っていないとついさっき絃成自身が言っていた。那月だけは暁が唯一信頼している相手でもあり、その信頼が相互にあるからこそ那月は絃成の潜伏先に暁の部屋を教えた。 「那月の出身兵庫だっけ」  ふとした瞬間、那月の口から関西弁が飛び出す場面に暁は良く出くわした。それは新名と口論している時が多かった。普段の会話では関西弁が出ないように気を付けていた那月ではあったが、やはり感情が昂ぶった時には素の口調が出てしまうようだった。 「違う、神戸」 「……神戸は兵庫県だよ?」 「そうなの?」 「ええ……」  やはりどこまでいっても絃成は絃成なのだと呆気にとられた暁だったが、絃成がこんな調子であるからこそ那月も思わず手を貸さずにはいられなかったのだろう。この調子ならばきっと名古屋と愛知県、横浜と神奈川県が別物であると思っているに違いないと暁は内側から込み上がる笑いを隠し切る事が出来ずに肩を震わせた。  絃成の指先が暁の前髪を揺らす。瞼を軽く落とし細めた目線を向けながら暁が視線を移すと、いつにもなく真剣な絃成の眼差しが向けられていた。その瞳から逃れられない事を暁は知っていた。 「一緒に行かねぇ? アキ」  どくんと暁の鼓動が大きく打った。たった一晩の甘い夢だけで終わらせるつもりは絃成には無く、新名の手から逃亡する為のパートナーに絃成は暁を選んだ。夢では終わらないこの現実が暁の涙腺を刺激し、視界に居る絃成の姿を揺らす。  ――お前は俺を裏切らないよな。  途端に耳の奥に蘇った和人の言葉が暁の動揺を背後から掴み止める。このまま絃成を伴い逃亡するという事は、絃成を探す新名やひいては和人のことを裏切る事になる。全ての生活を捨てて絃成を選ぶことに躊躇いは無かったが、暁を縛る和人のその一言がだけが暁の決心を大きく揺るがせていた。 「……俺は、行けない」 「……そっか」  ――翌朝、暁が目を覚ました時、絃成の姿はもう隣に無かった。
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