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第三章 偶然の疎通
「帰ったよイト――」
思いがけないタイミングで和人と遭遇した事により、部屋を飛び出す前とは異なり気持ちも大分落ち着いた暁は気持ちを切り替え、玄関の扉を開けるとまだ部屋の中に居るであろう絃成へと声を掛ける。寝室にはまだ煌々と明かりが灯されたままであったが、暁の呼び掛けに対し絃成からの返答は無かった。
何かから逃げているはずの絃成がたったあれしきの口論で部屋を出ていく事は性格から見ても考えられず、しんと静まり返った室内へと足を踏み入れれば布団の上で仰向けに寝ている絃成の姿が見えた。
「――って、寝てるし」
近くの量販店へ行って来ただけなので、所要時間としては和人との会話を加味しても一時間程度だっただろうか。一度目の帰宅時には腹が減ったと騒いでいたのにも関わらず電気も消さず眠り転けるその姿を大物と捉えるべきか、ただ単純に神経が図太いだけなのか、暁は日用品や食糧品の入ったトートバッグを肩から下ろしながら眠る絃成の片脇に膝をつく。
「おーい、食べないのー?」
よくもまあ照明が付いたままの眩しい部屋で眠れるものだと暁は絃成の胸元を揺すりながら呼び掛ける。絃成の片手には暁が片付けた筈の文庫本が開いた状態で握られており、それはバンド解散後も暁が動向を追い続けたハジメの小説だった。
《後悔するには愛し過ぎた》。その文庫本をそっと絃成の手から抜き取り、開いた跡が残らないように布団の隅に置いても絃成が目を覚ます事は無かった。
「寝顔は昔とぜーんぜん変わらないんだなあ」
誰かの家に女性陣を含めて泊まりに行った事もあった。男達はその辺りの床に雑魚寝をしていたが、目の前に絃成の寝顔があった事に気付いた暁は慌てて背中を向けた。あの頃は絃成に気持ちを悟られないようにする事だけに必死で、今のようにゆっくりと寝顔を眺める事など出来なかった。口を開けば憎たらしいばかりの末っ子ではあったが、寝顔はまだあどけなく微笑ましさすら覚えた。
「…………」
今この瞬間だけならと暁は少しだけ素直になれた。暁の指先は徐ろに絃成の唇をなぞり、それでも絃成が目を覚まさない事を確認すると膝をついた状態のまま背中を丸め、薄く開かれた絃成の唇へ自らの唇を重ねる。
内心では、絃成が隠れ家の候補として自分を選んでくれた事が嬉しかった。それが例え利用されているだけの事だとしても、無関心でいられるよりもずっとマシだった。ずっと居て欲しいなどと考えることは自分には過ぎたことだった。
「――やっぱ俺のこと好きなんじゃん」
不意に聞こえた絃成の言葉に暁は目を丸くした。それが幻聴だと思いたかったが、先程までは確かにしっかりと閉じられていた絃成の瞼は開かれており、間近に迫る暁の顔に目線を向けていた。
「ッ!? イトナ、起きてっ……」
決定的な証拠を逃さないように絃成は仰向けになった状態のまま暁の肩を掴む。しかし驚いた暁はその手を咄嗟に振り払って身を起こすと距離を取る為に腰を浮かせる。
このままだと暁が再び部屋を飛び出してしまうかもしれないと考えた絃成は、即座に布団の上で身を起こすと距離を置こうとする暁の腕を掴む。暁がグループに顔を見せなくなった時、絃成は十七歳の高校二年生だった。あの頃の絃成にとって成人と未成年の差はあまりにも大きく、暁がグループに顔を出さなくなった事も就職などの関係で時間が作れなくなっただけだろうと考えていた。暁の事よりも当時彼女だった萌歌の事で頭がいっぱいで、暁ひとりが顔を見せない事を深く考えることも無かった。
年の差こそ縮められはしないが絃成も今は成人で、やっと暁と同じ目線で物事を見られるような気がした。そこに大人と子供という垣根は存在せず、対等な二人の人間として改めて見た暁は――怯え、徹底的に絃成を避けようとしていた。
「逃げんなって」
「やだっ」
さして広くもない2DKの室内、大の男である絃成が本気を出せば暁ひとり追い詰める事は容易く、掴んだ腕をそのままに壁際へと追い詰めると暁はこんなにも弱い人物だったのかと思える程に小さく震えていた。絃成の知る暁は今とは違い肩まで伸びた長い髪でいつも顔を隠し、絃成が話し掛けてもいつの間にか躱すようにその場から離れていた。
「アキ、ちゃんと俺の事見ろよ」
いつだって暁がまともに絃成の目を見て会話をした事は無かった。視線を向け続けていれば時折暁が気付き、前髪の隙間から目線がかち合うこともあったが、暁はいつだってすぐに視線を反らしてしまっていた。今でもそれは変わらず、こんなに近くに居て目線を合わせたところで咎める者は誰も居ないのにも関わらず、先程から暁は掴まれた腕で目前をガードして絃成から顔を背けていた。
「はなして」
「やだ、離さない」
暁が自分を好きだという事を絃成は知っていた。好きであるのにも関わらず暁本人はそれを認めようとせず何故か執拗に避けようとする行動ばかり起こしている。それが絃成には理解が出来ず、暁の本心が知りたいと片手を暁の頬に添え指先で支えながら暁の顔を覗き込む。
「見んな……」
何故あの頃気付く事が出来なかったのか、長い前髪でずっと隠していた暁の顔はとても凛々しく、中性的に見えた。瞳を揺らす涙も、上気しほんのりと赤く染まった頬も、それが拒絶から来るものではないと絃成は本能で感じ取っていた。浮かべている表情とその言葉が全く一致していない事が更に絃成を困惑させる。
「好きなんだろ俺の事」
好きならば好きと、ちゃんと言葉で伝えて欲しい絃成は萌歌と付き合った時も切っ掛けは萌歌からの告白だった。言葉で好きだと伝えられたならば絃成はその相手が自分の事を好きなのだと理解する事が出来た。
「違う、好きじゃない」
覗き込む絃成の顔を押し返し、逃れようとした暁は体勢を崩してその場に上半身から崩れ落ちる。咄嗟に絃成は腕を掴んだまま暁へと覆い被さり、もう片方の腕を床について暁の行手を阻む。
「嘘つくな、じゃあさっきの何だよ」
絃成は何も分かっていない、と暁は感じていた。昨晩から何度も絃成本人から自分の事を好きだろうと問われ続け、暁の羞恥心は限界に近かった。これが男女関係ならば話は別だった。しかし男が男に恋愛感情を伝えられ、喜ぶ男はごく一部の稀有な人間だけだった。伝えたところでどうせ叶わない想いである事は分かっていた。だからこそ暁は決して絃成には本心を明かさないと決めていた。
「……離して」
「繰り返すなよ。犯すぞ」
「……男と、ヤった事なんか無い癖に」
昨晩絃成が現れてから過去の事を何度も思い起こしているような気がした。倒れ込んだ事で目に溜まった涙が暁の頬を伝って流れ落ちる。
――いやだっ、やめて!
「確かに無いけどさ」
男に組み敷かれ、強引に犯されたことなど無い癖に。同じ男相手に力では敵わない恐怖がどういうものであるのか、暁の脳裏に絶望的なあの日の光景が鮮明に蘇る。
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