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第四章 逃亡の理由
――彼は、嘗て心から愛した者の手を断腸の思いで離した。実際に身を切られる事より何倍も苦しく、彼は愛した事実そのものを深く後悔した。
明確な言及こそ無かったが、暁はその相手との間に肉体関係があったのだろうと推測していた。決して報われることの無い、想うだけの恋も辛く苦しいものではあったが、この一線を踏み越えてしまった時、二度と引き返せないのではないかという恐怖があったからだった。
もしあの小説の主人公と同じように、これまで以上に絃成を愛してしまった場合、いつか来るであろう別離の瞬間に自分の心は耐え切る事が出来るのだろうか。ただの性欲処理であると割り切る事が出来たのならば、心は幾分も楽だった。
引き返すならばこれが最後のチャンスであると分かっていながらも、容易くこの手を離せるほど薄っぺらい想いを今日まで抱き続けていた訳では無かった。
「あっ、……イト、ナっ、も、もう……無理っ……」
握り返す暁の指先に力が籠もる。浮き上がる甲の骨が指先に触れ、それが確かに絃成の手である事が暁の胸の内を熱くする。ずっと想い続けていたはずなのに、何故こんなにも苦しくて切ないのか。他の誰とも異なる絃成の感触が、暁の心臓を今までに無い程強く締め付けた。
熟練の手付きかと問われれば、一方的な感情をぶつけるだけの絃成の手腕はとても相手の事を考えているとはいえないものだった。しかし絃成が性別というハードルを飛び越えてでも伝えたいものがある事だけは暁にも汲み取る事が出来た。
「ん……もうちょい、我慢して……」
「……なん、でっぇ……んんっ、」
優しいキスが雨のように降り注ぎ、言葉に混ざる切羽詰まった絃成の吐息がぞくりと暁の背筋を震わせた。触れ合う箇所が焼けるように熱く、少しでも気を抜いてしまえば容易く全ての意識を意識を持っていかれてしまいそうで、暁は無意識に握り込んだ手の甲へ爪を立てる。
暁は自覚をしていながらもそれを認める事を拒んでいた。胸を締め付ける痛みが嫌悪感や拒絶感からくるようなものではなく、非常に言語化し難いものではあったが暁にとってそれはとても暖かいものだった。それは暁が今まで一度も経験をした事がないもので、心から愛した相手とひとつになれているというこの現実が暁の感覚をこれまでにない程鋭敏にさせていた。
「……アキ、今めっちゃエロい顔してんの、知ってる?」
「なっ、バ、バカぁっ……!」
そう言って前髪を掻き上げる指先も優しく、絃成の一挙一動に暁の心は泣き出しそうなまでに震えていた。夢であるのならば永遠に醒めないで欲しい。嫌な現実を見なくて済むのならば永遠にこの夢の中に居ても構わない。しかしこれは夢や幻でもなく紛れもなく現実で、見下ろす絃成の大人びた表情にぞくりと肌が粟立つ。
何度目のキスであるのか、暁はもう数えることをやめた。その舌の温度も、遠慮なく求めるように伸ばされる動きも、どれひとつも決して忘れることが無いように。例え身を切る程後悔する結末になったとしても、今確かに絃成と共に在るこの瞬間だけは真実であるのだと。
「可愛い顔してんのに、何で今まで隠してたんだよ」
「……かわいく、なんっか」
可愛いなんて事がある訳無いと、暁は耳までを赤くしたまま顔を背ける。自分は男で、真夜子や萌歌のような可愛らしさや肉体的な魅力がある訳でも無く、これまではただ性欲処理としてしか扱われたことが無かった。自分には縁遠い言葉のように背ける暁の横顔を見つめる絃成だったが、背けられてしまった顔の代わりに目前へと晒された白い首筋に視線を奪われると吸い寄せられるように唇を近付ける。
避妊具の用意や事前準備も全てが暁任せで、お膳立てされた暁に手を引かれる絃成であった。しかし薄ぼんやりではあったがその暁の行動全てが経験者である事を物語っていた。初めの内こそ緊張が暁の全身から伝わってきてはいたが、想像していたよりも痛がる素振りが見えなかった事は絃成の小さな疑問を確信へと導いた。
もし暁に絃成の知らない恋人が居たならば、それを盾に拒絶されていただろう。そういった感覚に関しては潔癖のきらいをもつ暁が、恋人が居る上で自分との行為を受け入れるような人間では無い事を絃成は知っていた。
だからこそ、目の前に見えた白い首筋へ刻み付けたくなった。今日この瞬間、確かに互いの想いが重なり合っていた証拠を。真っ白な和紙の上に真っ赤な絵の具を一滴垂らすように、濃く、より濃く、二度と消えなくても構わない。吸血鬼のように血を吸って隷属させることが出来たのならば、言葉では伝わらない真意を疑わずに受け入れて貰えるだろうか。絃成が念を籠めて吸い上げた結果、暁の首筋には真紅の花弁が小さく舞った。
「……人の目、見るの……苦手で……」
「あーいつもキョドってたよなあ」
金髪の奥に見た暁の瞳は、嘗て絃成が無理矢理覗き込んだ頃と何ひとつ変わってはおらず、吸い込まれそうな程黒い瞳は浮かぶ涙で朧げに揺れていた。
「……イトナ、話す時めっちゃ見てくるから」
「だってアキが俺の事見ねぇんだもん」
避けられれば余計に見たくなる。当時は瞳の色と同じ黒い前髪がそれを邪魔していたが、今は透ける金糸のお陰で以前よりはっきりと暁の瞳を覗き込むことが出来た。白い頬は仄か桃色に薄付き、嬌声を抑えようと堪える姿もいじらしく、もしかしたら暁の瞳を覗き込もうとしたあの時点から既に並々ならぬ興味があったのかもしれない。近寄ろうとすれば離れていき、触れようとすれば拒まれる。ようやく手中に収めた黄色くて白い猫の跳ねる身体を掻き抱き、絃成は言葉では伝えられないその感情を暁の全てを満たすように吐き出した。
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