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第五章 ニーナの詰問
絃成が姿を消して数日、不思議と暁の中に喪失感は無かった。たったの二日、四年越しに想い続けた絃成と身体を重ね、逃亡のパートナーとして声も掛けてくれた。既に消えつつある首筋の花弁がその晩の事を夢ではないと暁に知らしめていた。もう後悔すらもこの胸に抱くことはない。あの時絃成の気持ちは確かに自分にあったのだと暁は信じることが出来た。
もし和人に二晩だけでも絃成を匿っていたことを知られたとしたら、きっと暁であってもただでは済まない。暁は絶対に和人を裏切れないが、それでも絃成だけは守りたかった。
絃成は無事に神戸へと逃げられただろうか。持ち合わせが無いと言っていた絃成だったが、暁が翌朝目を覚ました時財布から幾らか現金が消えていたから恐らく片道の交通費にはなっただろう。勝手に住所を開示したことを那月に問い詰めるつもりだったが、そんな気にもなれずただ繁華街へと買い物に出ていた。
夏も近いこの時期の陽射しは眩しく、眼鏡越しでもちりちりと目が痛む。特に何か買いたいものがあった訳でも無く、目的も無しに街をぶらつけば何かしら目に入るものもあるだろうと暁は並ぶ店先の看板やポスターへそれとなく視線を向けていた。
本屋に足を向けてもそこに暁の望むものは無かった。前に絃成へ告げた通りハジメは一年前の事故から作家活動をしていなかった。事故後の状況は無いにも等しく、自然と本屋から足が遠のいた。並ぶCDショップの中に見えたのは解散後もただ一人音楽活動を続けているNeunの新譜ポップアップだった。Neunのソロ活動には余り興味を持っていなかった暁だったが、ゼロの脱退後新リーダーとしてSCHRÖDINGを支え守り続けてきたNeunの存在は今もファンの中では大きいものだった。
暁が惹かれたのはポップアップの中にあった一文、Octōの名前だった。解散後はフリーターをしているという噂のあるOctōだったが、Neunの新譜にて一曲Octōが作詞作曲しているものがあるのだと書いてあった。Octōが作曲したものは今まで幾つかあったが、Octōが作詞したものは今までひとつも無かった。これを切っ掛けとして再び音楽活動を再開するつもりがあるのか、とても暁には考えの及ばないところではあるが、Octōの作詞には興味があった。
今は音楽配信も主流ではあったが、文庫本のように形に残るものを大切にする暁は三千円と少しするその新譜へと手を伸ばす。すると暁の脇からごつい指輪を幾つも付けた男性の手が現れ、隣の山から暁よりも先に一枚を手に取る。その指輪に何故か見覚えがあり、暁は吸い寄せられるように手から腕を辿って隣に立つ男性の顔を見上げた。
その指輪はまだゼロが在籍していた頃、企画として制作された特徴的なもので、普段つけることは無いが暁も大切に保管してあった。Neunの新譜を手にするSCHRÖDINGの元ファンであるならば、ゼロがデザインした指輪を嵌めていてもおかしい事では無かったが、その爪の形や筋張った骨の形に暁は覚えがあった。
「……ろっくん?」
焼けた肌に拡張されたピアスホール、肩から首筋にかけてのトライバルタトゥーは暁が忘れようとしても忘れられないものだった。男だけの中ならば自分のすぐ下、三男でもあり四男に位置する新名――その男と四年振りの再会は思いも掛けないCDショップの店内だった。
「誰だおま――アキ、か?」
突然隣の見知らぬ金髪の客に声を掛けられ驚く新名は訝しげに暁を見やるが、新名が覚えている限り自分のことを『ろっくん』という愛称で呼ぶのはたった一人、暁だけだった。それでも新名の記憶に残る四年前までの暁はいつもぼさぼさの黒髪で顔の大半を隠し、碌に相手の目を見て会話も出来ないような人物だった。考えてみれば面差しは暁そのままで、重苦しい黒髪が透ける金髪に変わって垢抜けた以外は暁であることに間違いは無かった。
「随分変わったじゃねぇか、誰か分からんかったわ!」
それでも新名は目の前に居る相手が自分の知る暁と同一人物であるということを認識するまでに時間を要した。既知の人物であるという事が分かれば新名の表情はぱっと明るくなり、特有の笑い皺が猫の髭のようにくっきりと頬に刻まれた。
「ろっくん、何でここに?」
絃成に続き新名と連続して四年前の仲間との再会に恵まれた暁だったが、自宅に訪れた絃成とは違い、平日の昼間に繁華街のCDショップで知人と遭遇出来る確率は何万分の一の確率になるだろうか。先日の和人に引き続き、偶然にしては作為的な何かを感じられた。
「あ? 買い物だよ買い物。お前こそ――」
「いや、そうじゃなくて。イトナに刺されたんじゃ――」
既に絃成は暁の部屋には居ない。余程迂闊なことを口走らなければ二人の接点を勘付かれる筈が無いと考えていた暁だったが、絃成が兄のように慕っていた新名を刺したという衝撃的な事実にしては、目の前に立つ新名はぴんぴんとしていた。その現実の齟齬が暁の口から迂闊な言葉を口走らせてしまった。
「何でお前がその事知ってる?」
「あっ」
暁が自らの失言に気付いた時にはもう手遅れで、凍てつくような冷酷な視線が僅か上の角度から暁へと注がれていた。
「ごめん何でもないっ」
和人の前では上手く取り繕えた筈だったのに、絃成と身体を重ね、絃成の口から逃亡の真意を聞いた暁は完全に油断をしていた。手に取っていたCDを陳列された山の上へと咄嗟に戻し、一刻も早くこの場から立ち去らねばと新名に背中を向けて退店を急いだ。
「オイオイちょい待てアキ」
恐らく今の一言で新名には気付かれてしまっている。それならば有耶無耶にしたまま逃げ帰ってしまえば良い。暁の現住所を知っているのは絃成以外には那月しかおらず、新名と不仲の那月が絃成にはともかく新名に住所を教える可能性は皆無に等しかった。仮に和人経由で聞かれる事があったとしても、本来ならばそう簡単に那月は友人の住所を教えるような人物ではない。
逃げてしまえば一先ずの難は逃れられる。帰宅してからゆっくり今後の対策を考えれば良いと考え足を進めようとした暁の腕を背後から新名が掴んでいた。
「待って待ってまじ無理だって」
「アキお前何隠してる」
あくまで店内である事から大事にならないよう抑えた声で、それでもしっかりと新名の低い声が暁の鼓膜を揺らした。店内には誰の曲とも分からない有線放送が流れている筈なのに、二人の周囲だけはそれらが何も聞こえず暁の心臓の鼓動だけが痛い程に鳴り響いていた。
「何も隠してないってば」
冷静にならなければこの場は切り抜けられない。顔を覗き込まれれば今はまだ動揺が読み取られてしまうかもしれない。暁は背後に感じる新名の気配に決して振り返らないよう身を固くした。
顔を見ずとも暁が何かを知っているのは新名から見ても明白で、何年経とうがこうして近付くだけで身を震わせる子鼠のような姿は新名の中の嗜虐心を堪らなく煽った。新名が確信を持ったのは首筋に残った微かな鬱血痕だった。
「お前イトナと繋がってんな?」
他の客や店員に気付かれないように、傍目にはあくまで自然に、新名は暁との距離を詰めその震える背中にぴったりと身体を寄せる。
「何の事か分かんな――」
「言いたくなけりゃ身体に聞くだけなんだけどよ、昔みたいに」
何度も身体を重ねた。皆に隠れて、何度も。新名は暁が自分に逆らえない事を知っていた。それはどれほど月日が経とうとも簡単に変わるものではなかった。
「い、いやだ、やめて、お願――」
暁の小さな懇願の言葉は、店内に流れる有線放送のBGMで掻き消された。
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