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「あれ、三田さん指輪……」
ワイングラスを傾け、血のように赤い液体を揺らす蒼の左手薬指に結婚指輪が無い事を喬久は気づいた。蒼が結婚したのは約二年前の事で蒼の退職後の事ではあったが、喬久にも披露宴の招待状は届いた。奇しくもその頃喬久も組織編成の弊害から天手古舞でデスマーチの真っ只中だった為列席する事は叶わなかった。
「ああこれ?」
個人の感覚で結婚指輪を指に嵌め続けない人も確かにいるだろう。しかし蒼の薬指に残る跡は確かに長くその場所に指輪を嵌め続けていた証拠でもあった。加齢による体重の増加で指輪が嵌められなくなる事も確かにあるだろうが、四年前と比べて蒼の体型が肥大したようにも見られない。ほっそりと手入れの行き届いた指先は喬久の記憶の中にあるそれとそう変わらず、だからこそそこにあった筈の指輪の跡だけが鮮明だった。
口に出した後で喬久はまずい事を言ってしまったかもしれないと閉口した。指輪を外す理由にはそれぞれ意味がある。例えば不倫などをする場合――喬久は三十歳手前という年齢でありながら独り身が長く、潔癖な部分が強くあった。家庭のある身でありながらそれ以外の相手へと意識を向け、その人物と会う時は妻帯者である事を意識させぬようその証である指輪を外す。蒼は喬久にとって元ではあるが尊敬出来る上司であり、とてもそんな事をするような人間には思えなかったが、その可能性が頭を過ってしまった事に喬久は手の中のグラスを強く指先で握り締めた。
「――離婚したんだ。半月前だけど」
「それは、また……」
蒼の口から告げられた真実は喬久にとっては予想外の言葉だった。不倫以外にも指輪を外す理由はあり、それが蒼の告げた通り婚姻関係の終焉である事も間違いはないが、たった二年間で婚姻関係が継続出来なくなる程蒼が無責任な人間であるとは喬久は考えられなかった。
蒼は退社後自ら会社を立ち上げ現在はCEOという立場にある。その忙しさも喬久には考えられない程のものであっただろうが、蒼が入籍したのは会社を立ち上げた後だった。多忙過ぎたすれ違いという事も無さそうで、第一蒼が女性に対して非常にマメである事を元部下である喬久は一番良く知っていた。
「それがさあ、原因何だと思う?」
ワイングラスを置き喬久に指摘された左指を翳しながら蒼はその空席となった場所を見詰める。その表情にはそこはかとなく悲哀が混ざり何かがあっての離婚だという事は喬久にも容易に想像がついた。
「性格の不一致、とかいうやつですか?」
どんなに蒼が仕事と両立し真摯に向き合ってきたとしても根本的な性格の部分で齟齬が生じてしまったのならば共に居続ける事は叶わない。結婚とは紙切れ一枚の契約に過ぎなく所詮は他人同士、特定の恋人すら今まで作ってこなかった喬久からすれば良く二年も持ったものだと感心せざるを得なかった。
「ハズレ。原因はストーカー」
「え、奥さんにですか?」
蒼は爪楊枝でオリーブの実を口へと運ぶ。喬久は口に含んだ赤ワインを喉の奥へと流し込みつつ聞こえた言葉を三度は疑った。そういう事はテレビの中の出来事だけで自分とは無関係の事だと思っていた。幸いにも喬久には学生時代から今におけるまで周囲でストーカー被害に遭ったという人物は居なかった。何も波風無く人生は進み、この先何事も起こらずただ過ぎ去っていくだけだろうと考えていた喬久にとって、元上司の妻に対するストーカー被害というのは初めて身近な人に起こった事件だった。
「違う違う、俺のストーカーに彼女が堪えられなくなったの」
何か勘違いしていると気付いた蒼は爪楊枝を皿の中のオリーブへと刺してからへらりと笑う。蒼ももし自分の妻がストーカー被害に遭ったのならば何としてでも彼女を守るつもりではあった。しかしいみじくもストーカー被害は蒼自身の身に起こってしまい、繊細だった妻がそれに耐えられる筈も無かった。彼女を守る為には離婚して距離を置く事しか手段は無く、蒼としても愛した妻と離れる事は断腸の思いであった。
「三田さん、モテますからねえ」
女性に対して真摯に接する蒼はそれ故相手に勘違いされる事も多い。喬久は部下である時から何度もそういった光景を見てきていた。それでも蒼は女性の扱いにも長けていて、勘違いさせてしまった女性にすら真摯に対応し続けていた。蒼がストーカー被害に遭ったという事は、その相手はそうまでしても諦めてくれなかったという事なのだろう。元上司とはいえど女難の運命に見舞われてそうな蒼には喬久も大分慣れているもので、少なくともそれが自分に降り掛からなくて良かったと考えるばかりだった。
「もう三年、四年――くらいでしたよね。三田さんがウチ辞めてから」
「独立して結婚してから四年だからまあその位だな」
喬久が知る蒼の女性遍歴は蒼が喬久の上司であった期間までに留まり、連絡を取っていなかった数年間の内にどれ程の事があったのだろうかという事は想像に難くない。それでも蒼の事だからきっと巧くいなしていたのだろうと考えていた喬久は指先でオリーブの実を摘んで口へ運ぶ。
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