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からり、と誰かの氷が酒に溶ける音が聞こえる。
「――喬久は、どうなんだ?」
「何がです?」
蒼が久々に喬久へ連絡を取ってきたのは離婚後半月経過して身辺も落ち着いてきた頃だった。元々喬久に離婚原因を愚痴る為に呼び出した訳では無く、離婚したったひとりになった後不意に物悲しさから元部下である喬久の顔が過ったからだった。
自らの恥部を曝け出し、これでもし喬久が披露宴に参列していたならば合わせる顔すら無かっただろう。喬久からは後日ご祝儀が送られてきていたが、それが二年で破綻するとは蒼でさえ夢にも考えては居なかった。
「恋人。結婚考えてる相手とか居ないの?」
思えば喬久とは当時何度も仕事帰りの飲みに付き合わせた事はあったが、話題に出るのはいつも自分の女性遍歴ばかりで、喬久自身の恋愛遍歴を聞いた事は無かった。蒼が元居た職場は多少特殊で、この時代でありながらパワハラやセクハラが日常的に横行していた。それが退職したいと考えた一因でもあったが、だからこそ直属の部下である喬久のプライベートな話までは足を踏み入れて聞く事は出来なかった。
今はもう会社は関係無く、友人関係としてならば聞いても問題は無いだろうと考えた蒼は喬久が部下になって初めて会ってから六年、一度も聞けなかった事をこの場で聞いてみようと思った。
「ああ俺ですか。全然、居ないですよ。今も昔も恋人なんて」
その言葉は蒼にとっても予想外だった。しかし実際長年の付き合いを振り返ってみても、喬久に女の気配があった事は無かった。プライベートな事であるからこそ上司である蒼との飲みでは敢えて口に出さなかったのではないかと考えていた蒼だったが、同時に別の疑問が湧き上がってくる。
「え、まさかその歳で童貞……?」
「いやいやそれは」
蒼の問いは至極全うなものだった。三十歳手前で恋人が一度もいなかったと告げればそういった考えになっても仕方の無い事だろう。言葉の選択を間違えてしまったと喬久はもう幾分も残っていないグラスに唇を付けたまま固まった。
今もこうしてプライベートで連絡を取る事の出来る間柄ではあるが、もう上司と部下という関係ではない。蒼が今も他に自分と同じ職場の誰と繋がっているかは分からないが、蒼の元からの性格上そういった相手が居るならば自分が呼び出される事は無く、もし居たとしても蒼はそう口が軽い人間では無いと喬久は知っていた。
言うべきか、言わぬべきか、誤魔化すべきかと喬久は悩んだ。小指を添えてグラスを置き、その縁を指先でなぞりながら喬久は視線を蒼から正面へと移す。
「友達……まあ男なんですけど、抱いた事はあるんで童貞じゃあないっすね」
喬久が初めて男を抱いたのは二年程前の事で、時期としては蒼の結婚時期と重なる。仕事が忙しく休日もままならず、初めて男性専門のデリヘルを使ったのが切っ掛けだった。客とキャストという関係で出会った相手だったが利用を繰り返す内に親しくなり、相手とは今ではプライベートでも幾らか交流がある。友達と呼んで差し支え無い存在ではあったが、いくら酒を嗜んでいるからとはいえ性別までは要らぬ情報だったかもしれないと喬久は再び後悔した。
「喬久お前、ソッチ系なの?」
ともなれば蒼からそういった疑問が出るのも当然で、喬久は腹を括る事に決めた。軽蔑される可能性も十分あった。喬久自身は不倫を毛嫌いしているのにも関わらず、当の自分が同性相手にしか劣情を抱けないと知られれば幾ら寛容な世の中になっていたとしても差別は逃れられない。そうなれば詰みであるのだが、不思議と蒼にならば話しても自分を卑下する事はないと喬久は感じていた。ゆっくりと喬久は蒼へと視線を戻し、これでお互い様と言うように緩く困ったような笑みを浮かべる。
「違いますよ。――ただ、誰かを好きになるってのが分かんなくて。その点同性相手なら色々楽だなって」
それは偽りの無い真実だった。誰かを好きになるという感覚が喬久には分からなかった。好意を寄せた存在が居なかったという訳でも無い。しかしそれは遥か遠くの思い出であり、それが叶わぬ事であると分かった時喬久は誰かに好意を持つ事の虚しさを知った。だからといってその感情を否定する訳では無い。ただ喬久には理解が不能というだけで、蒼のように愛し合って結婚をしたとしても崩れ落ちるものであるという事が余計にその思いを後押しした。
「――なあ、喬久」
「何です?」
蒼はカウンターに頬杖を付いたまま喬久を見ていた。いつでも身嗜みには気を遣い、酒にも呑まれず、だらしない姿を見せる事が無い蒼にしてはその姿は新鮮過ぎた。だからといって喬久の中にある蒼への尊敬が失われる訳でもなく、返って心を許されているような気もして喬久の口元に思わず笑みが浮かんだ。
「俺のストーカー、実は離婚してもまだ居るみたいでさ」
離婚しても執着するストーカーというものは厄介であるというよりは、蒼が離婚をしてしまったからこそ自分にも可能性があるのかもしれないと思ってしまうものなのかもしれない。それでは離婚をしなかった方がマシであるとも考えられるが、妻の安全を第一に考えた蒼としてはそれ以外の手段は存在しなかった。
喬久は向けられる蒼の視線に異質なものを感じていた。悪酔いでもしているのか、頬は仄かに赤く染まり瞳が揺れ僅かに色気すら感じる。そう考えていた喬久の手は自然とオリーブへと伸ばされていた。なるべく張りのあるものをひとつ手に取り指先で軽く転がしてその弾力を確かめる。その喬久の手の上から蒼の手が重なる。
「相手が男なら諦めると思うんだけど」
蒼の言動の意味を喬久はすぐに理解する事が出来た。それでも喬久の指先が震えてしまったのは蒼の言葉の意図をが喬久にとって衝撃的過ぎたからだった。震えた指先からオリーブが器へ落ちる。
「喬久、俺の恋人の振りしてくんない?」
同性相手に劣情を抱けるという情報が蒼にこの決断をさせたのか、元々そのつもりで呼出したのか、喬久にははかりかねていた。それを幸いと表現してしまって良いのか、件の通り喬久に恋人は居ない。友人関係に発展した相手ともやる事はやっているがそれは最早セフレのような関係に近いものだった。
「――振り、で良いなら」
この時の蒼の申し出を喬久は何故か不快だと思う事が出来なかった。そして喬久は蒼のストーカー被害への対策としてこの日から蒼の偽りの恋人を演じる事となった。
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